惜しまれつつ去り、夫の乾太郎とオーストラリア旅行を
通常、裁判官を辞めてその後弁護士になる場合、辞める前に所属弁護士事務所を決めておくことが多いです。
しかし嘉子さんは、定年後のこうした準備を一切せず、定年の最後の日まで裁判官として全力で働きました。
私は日本初の女性法律家たちについて取材し、2013年に『華やぐ女たち 女性法曹のあけぼの』(復刻版は『三淵嘉子・中田正子・久米愛 日本初の女性法律家たち』日本評論社)を書いたとき、嘉子さんの息子である芳武さんに、嘉子さんが遺した日記を見せていただきました。
嘉子さんが唯一決めていたのは、退官記念に夫・乾太郎さんとオーストラリアを旅行すること。「この旅行をひとつのケジメにして、帰国後の生き方を決めていこうと思う」と嘉子さんは日記に書いています。
退官後の仕事は未定だったが、公職を次々にオファーされ活躍
退官後の身の振り方はまったくの白紙でしたが、嘉子さんを周囲は放っておきませんでした。
方々から声がかかり、嘉子さんはいくつかの公職を持って、在官時同様、忙しく活動していくことになります。
野に下って1カ月後の昭和54年12月から、労働省の男女平等問題専門家会議の座長に就任。この会議で嘉子さんがまとめた「雇用における男女平等の判断基準の考え方について」と題する報告は、その後制定される「男女雇用機会均等法」に生きることになります。
ほかにも、昭和54年6月には「日本婦人法律家協会」の会長、昭和55年1月には東京家庭裁判所の調停委員と参与員、同年5月には「東京少年友の会」の常任理事、さらに昭和56年10月「社団法人農山漁家生活改善研究会」理事、昭和57年8月に東京都の人事委員会委員、昭和58年7月には労働省の「婦人少年問題審議会」委員などを歴任。加えて昭和55年には、第二東京弁護会に弁護士として再登録もしています。