戦病死した最初の夫のことを37年後も忘れずに思っていた
退官後、嘉子さんは先に退官していた乾太郎さんと海外や国内に旅行をして、充実したリタイヤライフを送りました。
その一方で、退官後の嘉子さんの日記には、前夫・芳夫についても記しています。
そのひとつは、戦争が始まり、嘉子さんと同様に夫が召集された友人(平野露子さん)と一緒に、亀の甲羅に夫の名前を書いて放ったおまじないにまつわる出来事です。
亀を放ってから37年後の昭和56年3月23日の嘉子さんの日記です。
「裁判所の午後の調停に出勤する途中、日比谷の鶴の噴水のある池の端をブラブラ歩いていると、60歳を過ぎた男の人が私に話しかけてきた。
『あの亀は生きた亀ですか?』と。
池の水際に角が首を伸ばして、不動の姿勢でいる。反対側にも動かぬ亀がいる。いずれも相当、年を経た亀のようだ。
『生きていると思います。そういえば戦争中、徴兵逃れに亀の甲にその人の名を書いて、この池に放すといいということで、私も友人と一緒にここに来たことがあります』
私は平野露子さんと一緒におまじないをしに来たことを思い出して、老人に思わずそんなことを話してしまった。
『そうですか。あまりにも動かないものだから、生きているのかしらと思って』。その人は「失礼しました』とあいさつをして歩いて行ってしまった。
あまりにも品格のある亀の姿に、私は戦時中に願をかけて放った亀が、30年余りもここにすみついていたに違いないような気がしていた」
今は亡き前夫にも、嘉子さんは変わらぬ思いを抱いていたようです。
映画の「まだ見ぬ子がもう一人ほしい」というセリフに号泣
日記には旅行や日常のできごと、若いころの思い出、老いて体調を崩した現夫への心配などのほか、見た映画の感想などが書かれていますが、そこでも嘉子さんは前夫の芳夫に思いを馳せています。
『飛烏へ、そしてまだ見ぬ子へ』と題した映画を見た日の日記です。
悪性腫瘍から肺がんに転移して亡くなってしまう若い医師の手記を映画化したものですが、その主人公が「まだ見ぬ子がもう一人ほしい」と言う主人公の医者の台詞で、嘉子さんは亡き前夫を思い出しています。