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 記者という人たちは、取材し、書くことを生業としている。彼らは書かなければ生活できないし、こと対象が芸能人やプロスポーツの選手であれば、あんただって書いてもらってなんぼだろ、という持ちつ持たれつの認識もあるだろう。だから、取材対象の私生活の領域にも踏み入り、機嫌をとり、挑発し、時に傷をえぐることにも迷いはないのがプロだとも思っていた。その一方で、相手の有名性にかこつけてところかまわず奇襲し、スキャンダルや敗北に我先にと群がる姿を見ると、何か人間の浅ましさの煮凝りのような気がして、目を背けたくなることもある。

©文藝春秋

 マスコミ嫌いと言われたイチロー選手が、記者の言葉の揚げ足をとって、その不勉強や観察不足をあげつらう姿は、まるで無責任な観客の私自身の無知と半端な好奇心を咎められてもいるようでハラハラしたが、あれを「取材者との真剣勝負」や「愛情」と解釈するべきか、シンプルな「敵意」や「軽蔑」と捉えるべきだったか。意地が悪いようだが私はやはり後者の配分が多いのではないかと想像していた。常に問いかけられる側の人は、答えた言葉が人質に取られたように一方的に持ち去られ、時に文脈を無視したかたちで世間にばら撒かれ、意図せず第三者を貶めることになったり、自分という存在を測られたりしてしまう。なぜ質問者の思考のレベルに下げられなければならないんだ。俺を晒すつもりなら、お前も同じだけ晒されてみろ。そんな気持ちが、生まれてもおかしくはない。長年注目を浴びてきたトップアスリートが、メディアに対して退屈な決まり文句を繰り返すか、喧嘩腰になるか、あるいは無言のまま拒否するか、そんな傾向になっていくのを見ながら、無理もない、と思うことも多くなった。きっと彼らは、書かれてしまった自分自身の言葉に、幾度も傷ついてきたに違いないからだ。

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 けれど鈴木さんの「私」が対象に近づくプロセスには、「知る権利」などという言葉を安易に振りかざすのとは程遠い足取りの重さがある。落合邸のガレージに初めて立った時のあの長々とした煩悶。自分は伝書鳩だ、青二才だ、末席の記者だ、全てはあらかじめ決められている、これは自分の意思じゃない、競争やお追従笑いもしたくない。眠い、鞄が重い、でも記者として、行かねばならない。行きたくない――端正で硬質な筆致なのにもかかわらず、読んでいるうちに私の中には笑いさえ込み上げてきた。スポーツ新聞の担当記者といわれる人たちの中にも、こんなにも普通人らしい屈託やためらいがあるのか。その取材者としての恐れや足踏みのようなものがあるせいで、読者を対象に一足飛びには近づかせない。「そんなものじゃないだろ」と、記者自らが読者に対してバリケードを張っているようにも読める。この態度が、私には信じられた。