まずはどうしても、落合博満という稀代の野球人について書かれたこのノンフィクションの解説を、グラウンドでの野球経験もなく、もちろん指導者としての経験も持たないど素人――しかも、いまだにインフィールド・フライのルールなどにも戸惑ってしまうレベルの観客の立場から書かせてもらうことの不適格さについて、読者に謝らなければならない。そのくらい落合博満という人の野球観はすべての野球人・野球ファンの大きな関心事だし、またあの監督在任の八年間の思惑の謎は、今も人々の脳裏に濃くかかった霧のようなものだからである。史上初の一億円プレーヤーにして、三冠王を三度取った「落合さん」を抜きに日本のプロ野球史は語れない。現役時代から、どうしてあの人だけがあれほど他の野球選手と違って見えたのか、そして監督としてはさらに不可解さを極めたのか――いや、この際言葉を濁さず「嫌われたのか」について、多くの人が憶測で語り続ける中(日本の全プロ野球ファンは、評論家であり番記者である)、その落合さんの生の言葉を捕らえ、当時の選手やスタッフの証言を毀誉こもごもに綴ったドキュメントは、野球というスポーツと哲学の最難関の奥義に触れる読み物であるはずだ。日頃から多くの記者をはべらせ、選手やスタッフとも垣根を作らぬ人ならばともかく、夫人以外の他者をいかにも寄せつけなさそうな、かのミステリアスな指揮官がタクシーや新幹線で隣に座らせて言葉を聞かせ、時に眠りに落ちる姿さえ見せた記者がいたとは。この本の内容は、門外漢よりも野球道に通じた識者によって改めて評論され、語られるべきだということは初めに断っておきたい。

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 しかし私はその記者の名前に覚えがあった。ああ、鈴木忠平さんなのか――。直に会ったことはなかったが、以前隔月で一ページほどのコラムを連載させてもらっていた「Sports Graphic Number」で、たびたびその名前を目にしていたからだ。鈴木さんの書く言葉は、あたかもその勝負の瞬間の空の色をアスリートの隣で見ていたり、あるいは試合後に一人残ったロッカールームでのつぶやきを盗み聴いていたかのように写実的で、いかにもNumberらしい物語性とケレン味に溢れていたが、瞠目したのは清原和博さんの『告白』のインタビュー記事だった。

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 読者は、薬物使用で逮捕され、スターダムから転落した「キヨハラ」という怪物の現在地を知りたくてそのインタビューのページを開くが、鈴木さんのルポルタージュには、書き手である「私」の震えや戸惑いが太く介在している。私たちの知っている、八重歯の笑顔のあどけなかったスーパースターとは別人と化した表情のない中年男性と、無機質な部屋に対峙する一人の人間の緊張がひしひしと伝わってくるのだった。やけに躊躇するのだな、と感じさえする。スポーツ記者とは、こんなにも慎重なものだろうか。