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「監督」という呼称を冠する仕事はすべて、人に嫌われるものだと思う。自らは手を下さず汗を流さず、座って注文や判断だけをして、誤れば敗北や凋落が待っている。指揮下の人々は、指令通りに動く。「代打」と言ったら代打であり、では誰がいいですかねと全員で話し合うことなどあり得ない。納得していようと理不尽に感じていようと、指揮官の描く絵をかたちにするために誰もが黙って駒になる。その代わり、俺たちの蓄積や信念や生活や誇りを差し出した分の責任は取るんだろうな。お前の描く絵に、それだけの価値はあるんだろうな。彼らの汗は常に鈍く光り、黙ってその問いを向けてくる。

 鉄拳制裁と共に熱く抱きしめようが、データと分析と哲学で育成しようが、平身低頭で気を配りまくろうが、家族のように守り愛しぬこうが、監督と冠する人々の孤独は、絶対である。またその認識のない人間に、信は置けないだろう。

©文藝春秋

 

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 落合さんという人は、東北人の太い堪え性と強い美意識を持ってその孤独に耐え抜いた人だと思うが、決して情動のない人でもなかったのだろうとも読みながら端々に感じた。自らが授かった「神の目」が一体何を見ているか、その寒々とした残酷さも含めて、本当は誰かと分かち合いたい思いもあったのかもしれない。記者という存在は、アスリートにとってはしばしば仕事を妨害し、足元をすくう厄介な存在でもあるだろうが、ごくたまに、彼らがじっとそばで耳を傾けてくれることで、ゲームの中にも勝敗の中にも表すことのない、数字や評価とは無関係なため息のようなものが混じることはあると思う。ため息だったものがやがて問わず語りとなり、押し込めていた思いが哲学として語られることもあるし、あるいは、記事にする価値もない無様な愚痴や言い訳、誰からも言ってもらうことのない自画自賛が続くこともある。しかし記者という人種はそれに是もなく非もなく、ただ、黙って頷きつづけるだろう。そのことに、戦いに果てた者は救われている。必ずそういう瞬間がある。聞いてくれてありがとうとも言わず、むしろお前のために喋っているのだと言わんばかりに不遜に言葉を連ね、しかし密かに、なんとか自分が自分であって良いのだという思いに辿り着いている。記者は、多くの人を殺してもいるが、そうやって生かしてもいるのだろう。落合さんの八年間に、鈴木忠平さんが存在したことが、良かったと思った。

(映画監督)