父が創業した東京・大田区の町工場、ダイヤ精機の2代目社長となった諏訪貴子さん。元主婦という経歴や、当時32歳の若さだったことも影響して苦労は絶えなかったが、課題だった若手の育成や離職率の低減に力を入れ、“町工場の星”と呼ばれるまでになった。

 ここでは、そんな諏訪さんの『町工場の星 「人が辞めない最高の職人集団」全員参加経営の秘密』(日経BP)から一部を抜粋して紹介。「兄の代わり」として育てられ、父から2度もリストラされた諏訪さんが2代目社長になった経緯とは――。(全2回の1回目/続きを読む

諏訪貴子さん @稲垣純也

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息子の治療費捻出のために創業

 実は、私には1961年生まれの兄がいた。だが、兄は3歳で白血病を発症してしまう。高い治療費を捻出するために、サラリーマンだった父はゲージ工場を営む義兄から機械2台と職人3人を譲り受け、ダイヤ精機を創業した。高度経済成長のまっただ中にあった当時、ものづくりはお金を稼ぐ手っ取り早い手段だった。

 両親は兄に対して最新かつ最善の治療を施した。だが、残念ながら病魔に打ち勝てず、兄は1967年にわずか6歳で他界する。

 憔悴し、会社を畳むことすら考えた父だったが、周囲の支えもあって気持ちを立て直し、事業継続を決めた。そして、次の目標として「ダイヤ精機の後継者を育てたい」と思うようになった。 

 兄には年子の姉がいた。だが、女性は結婚し、子どもを産んだら家庭に入るのが当たり前とされた時代だ。父は「女の子では後継者にならない」と次の子を欲しがった。

 そんな期待の中で1971年に生まれたのが私だ。

「女か……」

 生まれたのが女の子だったことを知った父の落胆は大きかった。私が生まれた後も母が入院する病院へは一度も足を運ばなかったという。

 そういう環境で生を受けた私は、小さい頃から「あなたはお兄ちゃんの生まれ代わりよ」と聞かされて育った。

 そのせいか、子どもの頃、興味を持ったのは電車、自動車、戦隊グッズ、プラモデルなど男の子が好むおもちゃや遊びばかり。知らず知らずのうちに、「兄の生まれ代わり」のように生きる道を選んでいたのかもしれない。

 その様子を見て、次第に父は私をダイヤ精機の後継者にしようと考えるようになった。会社に呼びつけたり、取引先に同行させたり、私と「会社」「仕事」との接点を頻繁につくった。

 父から「ダイヤ精機の2代目になれ」と言われたことはない。自分でも、会社を継ぐことなど一度も考えたことはなかった。ただ、大学進学では「工学部以外は行かせない」と言われ、成蹊大学工学部に入学した。