大学卒業後は、父に勧められるまま、ダイヤ精機の取引先でもある大手自動車部品メーカー、ユニシアジェックス(現・日立Astemo)の工機部に初の女性エンジニアとして入社した。工機部では機械加工、生産管理、品質管理、設計など製造業のイロハを広く学んだ。
父にリストラを提案するが…
入社から2年後、社内のエンジニアだった男性との結婚を機に退社した。翌年には長男を出産する。
待望の男の子が生まれ、父は「でかした!」と大喜びだった。息子が成長するにつれ、「この子が20歳になるまで頑張る。その後、ダイヤ精機を継がせる」と言うようになった。「兄の代わり」のように生きてきた私だったが、ようやく肩の荷が下りた気持ちだった。
その後、以前から少し興味があったアナウンス専門学校のブライダル司会コースで学び、月に4~5件、結婚披露宴の司会の仕事をするようになった。
「兄の代わり」ではない、自分の人生を謳歌し始めた私だったが、父から「仕事を手伝ってほしい」と頼まれ、1998年にダイヤ精機に入社する。
バブル崩壊後、国内需要の低迷と円高によって、自動車関連業界には苛烈な再編の波が押し寄せていた。ダイヤ精機も逆風にさらされ、売上高はバブル期の半分以下に減っていた。
苦境の中で父は、大手メーカーに勤めていた私の経験を生かし、状況を改善する方策を見つけてほしいと思ったようだ。総務部員として入社し、各部門を回ってダイヤ精機の経営状況を分析した私は、不採算となっている設計部門の解散を含むリストラ案を父に示した。
「よし、わかった」と言っていた父だったが、実際にリストラを言い渡されたのは、ほかでもない私だった。ある日の朝、父に呼ばれ、社長室に行くと、「お前、明日から来なくていいから」と言われた。私1人がリストラされた。
突然、「余命4日」の宣告
予期せぬリストラでダイヤ精機を去ったが、2年後、再び父に請われ、会社に戻った。再度、経営分析をしたものの、状況は2年前から何も変わっていない。
前回と同じく、不採算部門からの撤退とリストラが必要という結論を父に報告した。
そして、またしても私1人がリストラされた。
リストラが必要なことは明らかなのに、なぜ踏み切ろうとしないのか。当時は理解できなかったが、経営者となった今は、父の気持ちがよくわかる。
経営者には雇用責任がある。社員は家族のようなもの。どんなに苦しくても、その社員たちを切るという決断は、父にはできなかったのだ。
再びダイヤ精機を去り、披露宴の司会のアルバイトに戻っていた2004年4月、思ってもいなかったことが起きた。父が倒れて緊急入院してしまったのだ。前年の手術で切除したはずの肺がんが脊髄に転移していた。病院の医師からは「余命4日」と宣告された。
ダイヤ精機は父が1人ですべてを取り仕切っていた。当然、事業承継の準備は何もできていない。
預金通帳がない。金庫が開かない。社印が見つからない。権利書がない――。会社と病院を何度も行ったり来たりして、病床の父に確認した。