父が創業した東京・大田区の町工場、ダイヤ精機の2代目社長となった諏訪貴子さん。元主婦という経歴や、当時32歳の若さだったことも影響して苦労は絶えなかったが、課題だった若手の育成や離職率の低減に力を入れ、“町工場の星”と呼ばれるまでになった。
ここでは、そんな諏訪さんの著書『町工場の星 「人が辞めない最高の職人集団」全員参加経営の秘密』(日経BP)より一部を抜粋して紹介。1966年にダイヤ精機の第1号社員として入社して以来、ずっと働き続けている吉川健二さん(76)から見た、2代目社長の印象は……。(全2回の1回目/最初から読む)
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もって4~5年だろうと思っていた
僕は1966年、19歳の時に入社したんですよ。ダイヤ精機が株式会社になる少し前。だから、株式会社の第1号社員で、すべての歴史を知っていますよ。
先代が急に亡くなって、今の社長に代替わりしたけど、それから20年、ダイヤ精機はすごくうまくいってるよね。こんなにうまくいくとは思わなかったよ。一番すごいと思うのは、19年前にバーコード式の生産管理システムを入れたこと。本当に画期的だった。
実はね、僕は社長はもっても4~5年だろうと思っていたんです。それぐらいで自分から辞めるんじゃないかって。だって、主婦から急に社長になったわけじゃない。大変だし、ずっと続けるつもりはないだろうと思ってた。
そうしたら、途中から若い社員をどんどん入れ始めた。驚いたよね。それも、サービス業から入れたり、高校や専門学校を卒業したばかりの新卒を入れたり…。大学出もいるな。とにかく製造業の未経験者を採用して育てるようになった。
僕らが若い頃は、いろいろな工場を渡り歩いているような職人さんを入れていた。そういう職人さんって、技術を身につけていて、仕事が早くて、即戦力になるけど、癖も強いんですよ。僕が矢口工場の工場長を務めていた時も、そういう職人たちがちっとも言うことを聞かないから苦労したよ。
社長が入れた若い人は、みんな真面目で素直、周りとうまくやれるタイプ。僕たちも、まずやらせてみて、「わからないことがあったらいつでも聞いていいよ」という姿勢で待つようにしている。社長も含めて、いい教育をしているから、そういう社員たちがうまく育ったよね。それはすごく大きいことだと思う。うちぐらいの規模で、若い社員を何人も育てた町工場って、珍しいでしょう。
今、ダイヤ精機の職人はほとんど若手じゃん。いいことだよね。機械も、デジタル機能が付いて性能がよくなってるから、ちょっと専門学校とかに通って学んだ人間なら、ちゃんと使いこなせる。腕もすぐ上がるよ。