ふりかえる過去は、いち早くルッキズムに晒された幼少期から、「ワルっぽい仲間」とつるんだ団地での思春期、摂食障害やウツ、ひきこもりを経験した青年期まで。それぞれの時期にそれぞれの苦悩があり、その時々をともに生きた仲間がいる。著者は、それらをくぐって「妻」になり「母」になった現在から、過去をかえりみる。しかし、その筆致は「乗り越えたいま」から当時の「渦中」を覗きこむようなものでは、まったくない。
ときにファニーな表現や当時のことばづかいを交えながら、あくまで事実とエピソードがおさえた筆致でつづられる。そこではある種の自己憐憫はおろか、当時の自分を理解したり、いまここに至るために必要だった過程として意味づけたりするようなそぶりさえ、徹底して排されている。みずからの過去と仲間を語るさいの端正で真摯、慎重な言い回しと、いまを笑い飛ばすかのような軽妙でポップな表現とが混淆し、この本にしかない文体というものが立ち現れる。
著者は、ぎりぎりまで、かつての自分や仲間たちがいだかざるをえなかった「当事者性」の引力圏に危ういところまで慎重に迫りながら、そこでスイングバイして高速で遠ざかっていく。この緩急のリズムと絶えず移動しつづけるスピード感が、本書を推進している。切実さと諧謔。どちらの極にもいってしまわぬよう、そのあいだで往復をし続ける、そんな文体だ。
文体が物語るように、著者は「移動」の人物でもある。障害と健常。団地の街と大都市。当事者と非当事者。その間での移動とはしかし、一方向的な「克服」や「成長」「卒業」などではない。あえていえば一種の「回復」なのかもしれないが、このことばは字面からわかるように一種の循環的な構造をもっている。すべては人生の円環のなかで起こる、一連の出来事なのだ。