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作家とは移動の人物である

 ある場所にずっといるとき、ひとはその体験を語る必要がない。そこには仲間うちでの符号と一種の方言があり、そこから「外」に向かう契機はない。ある場所から別の場所に移動したとき、自分がどこから来たのかを説明するために、はじめてことばが必要になる。それは、かつての自分を他者として、かつての仲間たちをいまの自分から切り離し、客体化することである。そういうことは「新しい場所のことば」でもって、おそらくできる。

 以前のことばでも新しいことばでも語ることができないのは、かつてからいまに「移動」したという私自身の経験であり、そこで起きた「変容」そのものである。移動した前後、そのはざまの距離に囚われざるをえないように生きているという事実そのものを、――説明ではなく――表現することはむずかしい。そのためには、自分にしか書けないようなことばが、いや、そんなものはないのだから、ことばの組み合わせと連ね方、要するに「文体」が必要になる。この意味での「自伝」を描くということでしか表現できないのは、そういう“生きざま”だ。

 哲学にも、ときにそういうふうにしか書けないことがある。思想的立場や主義主張のだいたんな変容というものが、人生には起こる。かつて擁護することをめざした思想を、もはや無価値どころか有害なものとしてしりぞける――そんなことが起こりうる。それは、かつての立場がたんにまちがっていたのでも、いまの立場がたんに正しいのでもない。ある立場から別の立場に移動せざるをえなかったという、その切実さそれじたいがある。

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 『まだ、うまく眠れない』の著者にも、この切実さがある。著者は、かつての自分や仲間たちに、いまの自分を擁護したりしない。かつての自分や仲間たちを批判したり、論駁したりもしない。しかし、その渦中にある危うさを否定せず、そこにぎりぎりまで迫る。そして、かつての自分と自分とともに生きていたひとびとを表現、つまり「代理」して語ることの危うさをも、乗りこなしてみせる。

 危うさとは一種の身体感覚である。だからこそ「自分だけの、身体になじむ(なじまさせたい)文体」が、必要になる。独自の文体をもつことが作家の条件であるならば、作家とは移動の人物である必要があるのかもしれない。そして、本書はその意味において作家の手になる、したがって「文学」と呼ばれるべき自伝なのだ。