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 岩倉は、京都の市街地北端の町だ。南側には松ヶ崎丘陵があって京都盆地と隔てられていて、北には若丹山地が聳えている。東に見えるのは延暦寺が鎮座する比叡山。西も上賀茂神社の丘陵地が控えていて、岩倉の町だけで小さな盆地を形成している。

 京都の中心部からは少し離れているという事情もあって、古くから京都の衛星都市的な位置づけだったようだ。古くは王城鎮護を目的に山の中に一切経を埋めたことがはじまりで、実相院や大雲寺といった由緒ある古刹も多い。

 

 古代から中世にかけては窯業が発達、江戸時代には禁裏御料(朝廷の所領)だったという。この時代には岩倉村内に所領を得ていた村上源氏久我家の一族が「岩倉家」を称しており、その末裔が明治維新の立役者・岩倉具視。岩倉盆地の中には、岩倉具視が隠棲した邸が残っている。

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 ただ、そうした岩倉の中心地は、国際会館駅の周辺ではなく、叡山電車岩倉駅の北側、実相院を中心とした一帯だ(岩倉具視の隠れ家もそのあたりにある)。叡山電車の線路より南側の一帯は、長らく京都近郊の農村地帯に過ぎなかった。

 

100年ほど前、この町に“あの鉄道”がやってきた

 明治初期に町村制が施行されたときには、一帯は岩倉村と称する。1928年に叡山電車(当時は鞍馬電気鉄道)が開通し、京都の市街地へのアクセス手段が確立される。

 この頃には路線バスの運行も始まって、京都市内との結び付きが一層強まってゆく。そして、1929年に同志社高等商業部が京都市内から岩倉村内に移転。これが現在の文教地区への第一歩であった。

 

 戦後は京都市内との間で人の行き来もますます盛んになり、そうして1949年、岩倉村は京都市と合併、京都市左京区に編入された。現在のような住宅地・文教地区としての形が完成したのは、1960年代以降のことだ。