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 いっぽう、「献忠」がネットスラング化したのは、ゼロコロナ政策のもとで社会の閉塞感が強まりはじめた2021年ごろである。おそらく、テレグラムなどで反体制的な「不謹慎ネタ」をやりとりしている、悪趣味オタク系の若いネットユーザーの間で広まったと思われる(往年のオウム事件の際、日本の中学生がふざけて「ポアする」という言葉を使っていたようなものだ)。四川省綿陽市の七曲山大廟にある張献忠像の写真も、スラングとともに盛んに用いられるようになった。

七曲山大廟の張献忠像。いまやネットミーム化している。中国のWEB百科事典『百度百科』「張献忠」より

 張献忠は歴史人物であるためか、彼の名前や画像そのものは検閲に引っかからない。さすがに無差別殺人事件を「献忠」として紹介する投稿は削除されるものの、スラングの象徴である張献忠像に文字を加えた画像や動画は、中国国内でも閲覧できる。いまや中国国内でも、ある程度スラングに詳しい人ならば「献忠」は知っている言葉のようである。

 「献忠」を流行らせた悪趣味クラスタでは、習近平について「総加速師」というあだ名も広がった。往年、鄧小平が改革開放政策の「総設計師」と呼ばれたのをもじった呼称で、中国を亡国へと加速させる当事者というわけだ。総加速師・習近平のもとで行き詰まった人物が、無辜の人民を殺害する行為が「献忠」である。

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多重債務者を追い詰める「デジタル市中引き回し」

 もともと、中国の社会は前近代から現在まで、日本よりも圧倒的に「強者の論理」で支配されてきた。すなわち、一部のエスタブリッシュメントが権力・人脈・カネ・学歴・恋愛・結婚・就職・住宅・健康・情報・法的優遇・社会的発言権などの一切を総取りする仕組みである。

 弱者に対する世間の関心も制度的な保障も、中国では伝統的に脆弱だ。そうした社会で生きることが困難な庶民は、濃厚な親族関係や地縁、場合によっては秘密結社や宗教団体などを通じた相互扶助の仕組みに頼って、長年にわたり生きながらえてきた。ただ、現代の中国では社会構造や価値観の変化にともない、血縁や地縁の保護機能が弱まっている。近年の習近平政権下では、宗教コミュニティやNGOなども弱体化した。

 中国の庶民がそれでも大きな不安を覚えなかったのは、中国の景気がよく、生活水準や暮らしの利便性が目に見えて向上してきたからだ。だが、ゼロコロナ政策とその後の経済停滞で、従来の危ういバランスは動揺している。

 しかも中国の場合、近年のデジタル管理のなかで失信被執行人(失信人)制度というものができた。これは、債務不履行や公共料金の未納などの不誠実行為の当事者に対する懲罰処置だ。失信人は航空機や高速鉄道に乗れない、三つ星クラス以上のホテルに泊まれない、中国からの出国制限などが課され、その名前と身分証番号がネットで公開される。

中国の検索エンジン『百度』で「失信人 地下鉄」で画像検索をした結果。中国各地の地下鉄駅や車内テレビ、果てはつり革の広告などで個人情報を晒されまくる多重債務者たち。まさに「デジタル市中引き回し」の刑である

 場合によっては、地下鉄駅のホームのテレビモニターなどに、顔写真付きで実名・住所・身分証番号が晒され「ダメ人間」として周知される目に遭う。中国は21世紀初頭まで、公開処刑や犯罪者の市中引き回しがおこなわれていた国であり、そうしたカルチャーが現在でも存在するのだ。