家族3人で揃って食事をした記憶は、両手で数えるほどしかなかった。早朝から深夜まで働き、日曜日もいない父親はもちろんのこと、母親も自分のタイミングで食事をする人だったため、太田さんはいつも1人で食事をしていた。
「今思えば、母は多動で不注意なところがあり、在庫管理ができないため、食材や調味料、カバンや洋服、日用品など、同じものを何個も買って来てしまっていました。家全体の片付けもまったくできず、特に母の部屋は服が山積みで、足の踏み場もありませんでした。そうしたことを父に咎められ、怒鳴られたり平手打ちをされたりして、泣いていることもありました」
小学校に上がった太田さんが、たまに家にいる父親に学校であったことを話し始めると、「うるさい!」「黙れ!」「しょうもないことを言うな!」と聞く耳を持ってもらえなかった。それでも食い下がると、「口答えをするな!」と怒鳴られる。そのため太田さんは、父親に話しかけなくなっていくだけでなく、次第に他人も話しかけなくなっていった。
「僕は40歳の時にADHD(注意欠如・多動性障害)とASD(自閉スペクトラム症)の混合型と診断されたのですが、おそらくそうした発達特性と父からのDVの影響で、誰に対しても自分のことを話さない、口数の少ない子どもになりました。他人に対して意思表示があまりできず、言語化能力が低いまま成長した僕を、母は不憫に思い、先回りして色々とサポートしてくれていたようです。
当時の僕は、『ありがとう』と感謝の言葉を口にすることはほぼなく、かろうじて『嫌だ』という意思表示だけはしていたため、両親にとっても学校の先生にとっても、可愛げのない子どもだったと思います」
母親は基次さんが嫌いな食べ物を極力出さないようにしたり、毎晩ランドセルの中をこっそり確認し、学校で困ることがないように対応してくれていたようだ。そのことに気づくのは、30年近く先のことだった。
父親からの暴力が減った代わりに教師からの体罰が増えていった
父親の顔色を窺って過ごしていた基次さんだったが、小学校高学年になるにつれて、父親からの暴言や暴力は鳴りを潜めていった。
「おそらく単純に、僕が成長したことと、今まで以上に父が仕事で忙しくなったこと、そして僕が少年野球やソフトボールを始めたことで、父との接触機会が減ったのが理由だと思います。その代わり、教師からの体罰が増え、中学に入ってからは入部した野球部の顧問の先生から怒鳴られたり殴られたりすることが加わりました」
基次さんが通っていた小・中学校はかなり荒れていたようだ。