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 所謂“ヤンキー”たちが毎日のように生活指導の教師とやり合い、教師の車のフロントガラスが割られたり、校庭の隅にある焼却炉が爆破されたり、授業中に隣町の“ヤンキー”たちが角材や金属バットを持って乗り込んできたりと、暴力的な光景が日常的にあったという。

 そんな環境もあってか、基次さんは教師や顧問からの体罰について、誰にも相談しなかった。

「僕が人に相談しない体質になったのは、『男は弱音を吐くな』『泣くな』と父親から繰り返し言われてきたことが影響しているのだと思います。それに加えて、時代背景的に『金八先生』や『ビー・バップ・ハイスクール』などが賞賛されていた時代なので、ムカついてはいましたが、こういう環境が普通だと思い込んでもいました。

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 僕自身、当時は友だちから相談を受けたことはなく、生徒の親が学校を訴えたという話も一度も聞いたことがなかったので、他人に文句を言ったり、悩みを相談したりという発想がなかったのかもしれません」

 確かに30年ほど前は、現代と比べると学校での問題が可視化されにくかったのかもしれない。また、女子中学生以上に、男子中学生が友だちや親に自分の悩みを打ち明ける姿は想像しにくい。もともと家庭で必要最低限の会話しかしない基次さんが、部活の顧問から暴力を振るわれることを親に相談できるわけがなかった。

 野球部の顧問は、気に入らない生徒には「このボケが! 殺すぞ!」「お前らなんか生きている意味ないんじゃ、クソが!」などと罵詈雑言を浴びせ、近距離からボールをぶつけたり、平手打ちを喰らわせたりして、ろくに野球の練習をさせず、引退までひたすら外周を走らせた。

©AFLO

イエスマンとして扱われるように

 顧問の暴力は基次さんに対してだけではなかったが、口下手な基次さんは次第に、友だちたちからも都合よく利用されるようになっていく。

「相手から嫌なことを言われると、頭が真っ白になり、言葉が出ず、その場で言い返すことができませんでした。何も言わないと、相手には同意したと思われてしまい、結果的に都合良く『イエスマン』として扱われるようになりました」

 高校生になると、基次さんの家に悪い友だちが集まるようになり、朝まで麻雀をして居座られたり、部屋の中で喫煙されたりするほか、基次さんのお金でカラオケに行くようにもなった。

 車の免許を取得してからは、友だちと会うときは必ず全員を家まで送迎させられた。

「当時は『人に嫌われたくない』という気持ちが強くて、後から自分の意見や言い返したいことが思い浮かんでも何も言えず、嫌な人間関係も自ら断ち切ることができず、嫌々付き合っていました……」