いま日本映画界を第一線で支える映画監督たちには、8ミリ映画を自主制作し、才能を見出され、商業映画にデビューした者たちが少なくない。今年『蛇の道』『Chime』『Cloudクラウド』と公開作が相次いだ黒沢清もその一人。自身、自主映画出身監督であり、黒沢監督の大学の後輩でもある小中和哉氏が聞き手として振り返る好評インタビューシリーズの第6弾。(全4回の1回目/2回目に続く)

大学の先輩・後輩である黒沢清監督(右)と小中和哉監督(左)©藍河兼一

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 フランスでの映画制作など、活動の場を海外にも広げている黒沢清監督は、大学の映画サークルでお世話になった大先輩だ。僕が立教大学在学時に黒沢さんは既に卒業していたけれど、よく学校に来て僕らの作品を見てくれたり、自分でも8ミリを撮ったりしていた。黒沢さんが商業映画を撮り始めると、サークルの仲間と共に僕も黒沢さんの現場に参加させていただいた。そんな黒沢さんから、8ミリ映画作り、商業映画デビューの頃を改めてお聞きしたインタビューをお届けする。

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くろさわ・きよし 1955年兵庫県生まれ。高校時代から自主映画を制作し、立教大学では蓮實重彦に師事した。長谷川和彦、相米慎二作品に参加した後、『神田川淫乱戦争』で商業映画デビュー。『ドレミファ娘の血は騒ぐ』『地獄の警備員』などで話題となり、97年の『CURE  キュア』で世界的に注目された。以後、『アカルイミライ』『トウキョウソナタ』『岸辺の旅』『ダゲレオタイプの女』『スパイの妻』など話題作を多数発表。世界でも称賛を浴び続ける、現在日本を代表する映画監督の一人。最新作『Cloud クラウド』が公開中。

8ミリを撮り始めたころ

―― 初めて8ミリに触れたのはいくつの時ですか?

黒沢 高校生の時です。友人がたまたま8ミリカメラを持っていたので、いろいろ撮って遊んでいました。当時のアメリカ映画好きの男の子はみんなやるんですけれども、サム・ペキンパーの真似をしてピストルに撃たれて倒れていくところをスローモーションで撮ったり。

―― まだ映画の体裁じゃなくて?

黒沢 映画ではないですね。今とは全く違う時代なので、映像が撮れること自体が驚異でした。小中の『Single8』でもやっていましたけれども、撮っている時には本当に撮れているかどうか分からない。下手すると露出を間違えて真っ暗だったり、ピントが全然合ってなかったり。回してみて、1週間後ぐらいに現像が上がってきて、「ああ、撮れてる」。撮れてることが喜びだった。