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―― サム・ペキンパーの真似は、カメラでスローができたんですか?

黒沢 そうです。血のりが入ったビニール袋を自分の手で押して、ブシューッと血を吹き出しながら倒れる友人を撮って。でも3倍とかのハイスピードで撮っても、出来上がったものを見ると全然サム・ペキンパーじゃない。あれは10倍とか20倍とか恐ろしいハイスピードで撮っているわけで。

―― 3倍程度ではたいしたことないですよね。

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黒沢 たいしたことないです。撮れてるという喜びと同時に、「全然ペキンパーじゃない。ガッカリ」というのを同時に味わってましたね。

―― 初めて作品になったのはいくつの時ですか?

黒沢 作品らしきものを撮ったのは高校3年生の時ですね。全く恥ずかしいような、15分ぐらいの短編でサイレントでした。内容はその時通っていた高校に対する批判のようなもので、そういう時代だったんですけど、学校のやり方は間違ってる、「これを乗り越えねばならない」みたいなことを友人2~3人でドラマ化した。

―― タイトルは何ですか?

黒沢 六甲学院高校というところに通っていたので、『六甲』というタイトルでした。

©藍河兼一

立教大学の映画サークルで撮った『暴力教師』

―― 本格的に映画を作るようになったのは大学に入ってからですか?

黒沢 大学に入ったらサークルに入って、もう少しちゃんとした映画を作りたいという欲望はありました。ただ、いわゆる商業映画を作りたいというのとは違っていたと思います。当時の幼い自分の考えを思い出すのはなかなか難しいんですけれども、映像を使って広い意味での物語のようなものを語るにはどうしたらいいんだろうということと、大好きだったアメリカ映画に近づくにはどうすればいいのかということを考えていたと思います。

 高校生で受験勉強が嫌になったりして、東京に出てきて1年浪人した挙句に立教大学に入ったわけですが、東京に来るといろいろな映画が見れるということが分かって、アメリカ映画に限らず、やたら何でも映画を見始めてはいました。