いま日本映画界を第一線で支える映画監督たちには、8ミリ映画を自主制作し、才能を見出され、商業映画にデビューした者たちが少なくない。
そんな日本映画界の「青春時代」を、自身も自主映画出身監督である小中和哉氏が聞き手として振り返るインタビューシリーズの第4弾は、『ジョゼと虎と魚たち』『のぼうの城』『名付けようのない踊り』などで知られる犬童一心監督。(全4回の1回目/続きを読む、#3、#4を読む)。
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犬童一心監督は、学生の頃、手塚眞さんたちの上映会などでよくお会いしていた自主映画の先輩。犬童さんが声をかけてくれて、一緒にテレビドラマの仕事をしたこともある。自主映画時代のこと、CMの仕事から商業映画のことまで、いつものフランクな犬童さんの話しぶりで語っていただいた。
いぬどう・いっしん 1960年生まれ。高校時代より映画製作を行い、『気分を変えて?』がぴあフィルムフエスティバル入選。大学時代、池袋文芸坐と提携して16ミリ作品『赤すいか黄すいか』、8ミリ作品『夏がいっぱい物語』を発表。 大学卒業後CM演出家として数々の広告賞を受賞。98年に市川準監督の『大阪物語』の脚本執筆を手がけ、本格的に映画界へ進出。1999年に『金髪の草原』で商業映画監督デビュー。主な作品に『ジョゼと虎と魚たち』『メゾン・ド・ヒミコ』『黄泉がえり』『ゼロの焦点』『のぼうの城』『グーグーだって猫である』など。
10回は見た『ダーティハリー』で学んだこと
――犬童さんは映画を作り始める前、どんな映画ファンでしたか?
犬童 僕は小学生の頃野球少年で、学校が終わった後に練習があるんです。ない日だと、3時に帰ってテレビをつけると、ほとんどが奥さま番組なんです。でもテレビ東京は昔の洋画を毎日やってたの。他が面白くないからそれを見るというのが始まりで。そうしてテレビで映画を見ているうちに、野球よりずっとそっちのほうが面白くなった。昔って夜9時から洋画劇場がやってたじゃない。
――毎日やってましたね。
犬童 日曜日は邦画もやってて。小学生の時にテレビで相当映画マニアになってた。でも、映画館にはほとんど行ってないんですよ。中学になって、ちょうど『ぴあ』が出始めたんです。
――創刊したんですよね。
犬童 『ぴあ』には1カ月の東京の映画館のスケジュールが全部出てたんです。それで、学校の帰りに親に隠れて、『ぴあ』を片手にひたすら映画を見に行くんです。
『ぴあ』がいいのは、好きな映画をまた見に行けること。同じ映画を繰り返し見るというのが、とても良かった。映画が物語で終わらない。物語で楽しんだ後に、ものすごく細部を見るというか。それが、映画を作るほうに近づくのにすごく影響していると思うんですよね。僕、『ダーティハリー』をたぶん中高で10回ぐらい見てますよ。
――分析的に見るようになるんですね。
犬童 分析はそんなにしてないですよ。キャラクターに会いたいんだと思うんです。『ダーティハリー』だったらハリー・キャラハンにも会いたいけど、犯人のサソリにも会いたいんです。それで繰り返して見ていくうちに、他のディテールも見るようになって。ある時に、カット割りがはっきり分かってくるんですね。そうすると、何を基準にしてカットを分けているのか疑問になるんです。撮る人によってみんな違うし。
例えば人の顔を撮る時に、『第三の男』だったら、ワイドレンズで下から撮ったり、セルジオ・レオーネだったら、ずっとアップを見せるとか。その基準が分からないんですよ。何をもってこの人はそれを決められるのかと。それはいまだに疑問はいっぱいあるんですけどね。僕はカットを割る時は、できるだけ言語化して割るようにしています。