――一応理屈があるんですね。

犬童 理屈というか、言語化しないとカット割りがしづらいんです。小学生から中学生にかけてはそれが疑問で、中学の時に「ああ、そうか」と思ったのが、『ダーティハリー』です。覚えてます? あの映画。

――何となく。

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かっこいい映画を撮る監督とそうでない監督がいる

犬童 最初、サソリが高いビルから低いビルのプールにいる女性をスコープ付きのライフルで狙っているところから始まるんですよ。女性がプールに飛び込む、それをスコープから見てるっていう。それをカットバックしてるんですね。そうすると、1発だけサイレンサーの銃声がして、女性に弾が当たって沈んでいく。それでシーンが切り替わると、低いほうのビルの屋上に、サングラスをしたクリント・イーストウッドが入ってくるんですよね。そうすると、ラロ・シフリンの曲が始まるんですけど、中学生の僕はまずそれにやられているんです。ただただかっこいいから。

 それで、イーストウッドが死体のところに行ってしゃがみ込んで、周りを見て横にある高いビルに気づくんですね。それでサソリがいたビルにたどり着くんです。そこでイーストウッドが何か落ちていないか歩いて探しているのを、向こうにサンフランシスコの街を見せながらパン(注1)していくんです。

 何度目かに見ている時に、冒頭と同じ場所なのに、全然違う撮り方をしていると思ったんです。イーストウッドが来た場面で初めてサンフランシスコの街を広く見せているんです。それまでサンフランシスコの遠景は一回も入ってないんですよ。その時に、「ああ、そうなんだ」と思ったんです。要は、この刑事がこの大都会の中から犯人を捜す映画なんだって。だから、ハリー・キャラハンの場面でサンフランシスコの街を一緒に見せなきゃいけないと決めてるんだと。

犬童一心監督 撮影 藍河兼一

――なるほど。

犬童 その頃、自分の中で駄目な監督というのがもういたんですよ。例が難しいんですけど。ジョン・フォードの映画を見ていると西部劇はかっこいいし、セルジオ・レオーネも見ているとかっこいいんだけど、ヘンリー・ハサウェイの西部劇だと、ジョン・ウェインが出ていてもなんかいまいちだな、みたいな。駄目な監督だと、冒頭でサンフランシスコの街からパンしてくると、ビルの上に変な男がいるって始めかねないなと思ったんです。だけど、『ダーティハリー』のドン・シーゲルは明確に撮り分けている。この撮り分け方が間違ってないんだと思ったんです。

 それからさらに『ダーティハリー』を繰り返し見ているうちに、ドン・シーゲルという監督はひたすら決めてちゃんとやっているのがよく分かるようになった。その後で銃撃戦がいっぱいあるんだけど、それを見ても、こうじゃなきゃいけないと思って撮っている。それまでは感覚でやってるのかな、みたいに思っていたけど、カットを割るのって、作っている人の基準がはっきりあってやっていると思って見るようになったんです。