いま日本映画界を第一線で支える映画監督たちには、8ミリ映画を自主制作し、才能を見出され、商業映画にデビューした者たちが少なくない。今年『蛇の道』『Chime』『Cloudクラウド』と公開作が相次いだ黒沢清もその一人。自身、自主映画出身監督であり、黒沢監督の大学の後輩でもある小中和哉氏が聞き手として振り返る好評インタビューシリーズの第6弾。(全4回の4回目/最初から読む)
『神田川淫乱戦争』で商業映画デビュー
―― 『神田川淫乱戦争』ができたのは、ディレクターズ・カンパニーという母体があったからですね。
黒沢 そうですね。会社ができて1~2年後ですかね。根岸吉太郎さんが「黒沢も商業映画を撮らないとまずいんじゃないの?」とおっしゃったのがきっかけでした。それは僕に言ったというより、全体の会議で、「黒沢がいつまでも8ミリ監督や長谷川和彦の助監督じゃまずいでしょう」と言って。僕自身、そんなにまずいと思ってなかったんですけど、みんなで会議が始まったんです。
―― そうなんですか。
黒沢 根岸さんと大森一樹さんは、それはやっぱり低予算とはいえATGでデビューすべきだと。ATGでちゃんとしたものを撮っているので、新人のデビューはATGで作家的にデビューすべきだという意見なんです。でも、高橋伴明さんとかは「ピンクだってデビューできるよ」と言って、黒沢はどっちであるべきかと喧々諤々。僕はボーッと聞いていたんですけどね(笑)。「お前はどっちがいいんだ?」と振られて、「早く撮れるほうでどっちでもいいです」と言ったら、伴明さんが「ピンク映画だったらたぶん一番早く簡単に撮れるよ」と言うので、『神田川淫乱戦争』で商業映画デビューすることになったんです。
―― 作品の内容はかなり自由なものでしたが、制約を受けずにやらせてもらえたんですか?
黒沢 はい。今思うと、本当に自主映画ノリだったですね。こっちはほとんど『しがらみ学園』とか『逃走前夜』の流れの、そんなものを撮る気でいましたね。
―― 正にそんな内容でした。
黒沢 プロ意識はまるでないですよね。