――新作の『ZOKU-SHINGO 小さなロボット シンゴ美術館』も、冒頭に「これはロボットにおきたおとぎばなしです」ということばが置かれていました。
楳図 ロボットにおとぎばなしがあると面白いだろうなあ、と思ったんですよ。そこがすごく新しいかなあ、と。そこの設定を作ったうえで、ストーリーというよりかは、僕が普段いろいろ考えてしまうような、気になる要素を集めて一つにまとめたら、こういうふうになりましたという感じなんです。
例えば、あまりに進化しすぎたものって、ちょっと弱いですよね。分かりよい例で言ったら、木の洞に指を突っ込んで虫を捕って食べている猿は、指一本だけ長いんです。ああいう進化は、間違った進化だと思うんですよね。状況がガラッと変わった時に対応できないで、滅びるだろうなあと思ってしまう。でも、今の世の中で起きているのは、どっちかって言うとそういうイヤな進化ですよね。
だから僕、間違った進化の仕方をした時、そうなりそうになった時には、退化をしましょうと言いたいんですよ。元に戻る、ということなんですけどね。退化して元に戻ることのどこがすごいかと言ったら、何にでも応用が利くようになるんです。原始的になればなるほど応用範囲が広くなって、生命として強くなるんです。強くなったうえで方向を定めて、また進化すればいい。そのためにも、退化することが必要なんじゃないかと思うんです。
死がやっぱり一番怖い
――『ZOKU-SHINGO 小さなロボット シンゴ美術館』も含め、楳図さんは様々なかたちで「恐怖」を描かれてきました。今作から遡ること二七年前に描かれた大長編『14歳』(1990年~1995年)は、鳥人間の「チキン・ジョージ」が動物を代表して人類に復讐しようとする話です。こうした「復讐」の怖さが他の作品でも描かれる一方、楳図さんの初期の恐怖漫画ではしばしば、理由もないのに襲われる怖さ、因果関係が明らかではない「不条理」の怖さが描かれていました。「復讐」と「不条理」、因果のはっきりした恐怖と因果がわからない恐怖は、ご本人の中でどのように絡み合っているものなのでしょうか。
楳図 中心にあるのは不条理ですね。不条理であり得ない、「全部嘘です!」というお話じゃないと、僕にとっては面白くないんです。これはね、ホラーの定義でもあり芸術が求めるべきところだと思うんだけれども、「大嘘をどれだけつけるか」。大嘘をついてこそ芸術で、大嘘をつけてこそホラーで、ホラーと芸術って密接なんですよね。ホラーは絵柄的にもそれこそ不条理な絵になっていくので、描いていてすごく楽しいんです。
今おっしゃっていただいた復讐の恐怖は、おっしゃる通り因果関係のある恐怖ですし、僕の考えでいえば「行動の恐怖」に分けられるものなんですが、やっぱり不条理なものでもあるんですよね。現実にはあり得ないような復讐の根拠だの、復讐の手法だのが入ってくるからです。そこで不条理が抜けちゃっているものは、単なる事件なんですよ。単なる事件と、ホラーで表現される怖い出来事は、重なっている部分もあるけれども、いっしょくたにされたくないと思っちゃいますね。