闘病を見守り続けた家族
西城秀樹が、美紀夫人と結婚したのは、2001年6月30日。この年の秋に最初の脳梗塞が発症しているので、結婚生活とほぼ同時に、脳梗塞との闘いが始まったことになる。
病と闘った日々は『蒼い空へ 夫・西城秀樹との18年』に詳しい。3人の子どもの協力、葛藤などが書かれ、第4章「家族全員で闘った」というタイトルにすべてが詰まっている。
そして西城秀樹の生前の様々な記事やインタビューを読んでも、家族の存在が、絶望のなかの救いであり、生きる希望だったことは必ず記されている。
美紀夫人の寄り添いで、西城秀樹が何より助かったのは普通に接してくれることだったという。
〈もう人前で歌えないのなら、生きている価値があるのか。「歌手を引退しようか」と弱音も吐きました。思い直させてくれたのは、妻が言ってくれた、「ゆっくりと時間をかけて病気になったんだから、ゆっくり歩いて治していこうよ」という言葉です〉(「文藝春秋」2016年12月号)
西城秀樹の死後、美紀夫人は、家族ぐるみで親交があった歌手の小川知子にメッセージを託し、小川がこれをマスコミで代読した。
「倒れて入院してから2〜3週間、毎日病院で看病できたことがすごく幸せだった。子供たちも最期に立ち会えたことが良かったと思います。(亡くなった実感がなく)まだ夢のようです」
交友関係から見える人柄
63年の西城秀樹の歌手人生を振り返ると、純度の高いアイドルであり、生粋のシンガーであった。
そのパフォーマンスに、世の女性たちだけでなく、音楽小僧たちも夢中になった。秀樹のファンであったと告白しているアーティストは多い。河村隆一、西川貴教、そして矢沢永吉もまた、西城秀樹のファンだと本人に伝えていたという。アジア圏でも熱烈な人気があり、韓国で絶大な人気を誇る東方神起をプロデュースしたSMEのイ・スマン氏は、秀樹の熱烈なファンを公言している一人だ。
昭和の歌謡界、芸能界を彩った大御所たちも、彼の才能に夢中だった。作詞家・阿久悠は彼が20歳になった際「既に人生を知った人までもが歓喜の手拍子をうつような歌手にしたい」と熱くメッセージを送り、「ザ・ベストテン」で数多の歌手を見てきた黒柳徹子は、「あんなに歌の上手い人はいない」と評した。作詞家の湯川れい子は、当時あまり多く歌われなかった洋楽のカバーをコンサートで歌う彼を「日本のアイドル歌謡に洋楽を持ち込んで、その素晴らしさを広めた第一人者だと思います。先駆者といっていい」と高く評価している。
歌だけではない。1974年、彼が出演し一世を風靡したドラマ「寺内貫太郎一家」(TBS系)のプロデューサー、久世光彦は「あの炎のような激しいアクション、力感、エネルギー。だがその影には、きっと涙があるに違いない。バンカラではなく、少年のようにセンサイで、悲しいものを持っている。日本のアラン・ドロンは沢田研二だが、ぼくは秀樹には日本のジェームズ・ディーンになってもらいたいんです」と才能に惚れこんでいた。