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●信繁の覚悟

 大坂城が丸裸にされても、もちろん、信繁ら五人衆をはじめとする主だった武将は残留した。信繁が慶長20年(1615)3月10日付けで姉婿の小山田茂誠宛に出した書状からは、大坂夏の陣の直前の心情と覚悟がうかがえる。長い書状の一節の中に「我等身上の儀、殿様御ねんごろも大かたの事にては、これなく候へども、よろず気づかいのみにて御座候」とある。信繁は牢人衆の1人として大坂入城し、長宗我部盛親(元土佐22万2000石)、毛利勝永(元豊前1万石)とともに三人衆と呼ばれ(後に明石全登、後藤又兵衛も含めて五人衆)、中でも信繁は秀頼の信頼が篤かったようだ。しかしそれが災いして豊臣家譜代の家臣などに妬みとやっかみを持たれ、「(彼らに対して)何かと気を遣わなければならないからたいへんだ」といささか愚痴めいた心情を吐露している。

 また、「さだめなき浮世に候へば、一日さきは知れず候、我々事などは浮世にあるものとはおぼしめし候まじく候」の一節では、「今は不安定な世の中なので、明日のことすらどうなるかわかりません。だからもう私のことはこの世にいないものと思ってください」と、来るべき最後の戦いに向けた決死の覚悟が綴られている。ちなみにこの文書は小山田家に伝えられたもので、幕末に信繁の250回忌を行った際に木版印刷して一門に配布されたという(丸島和洋氏『図説・真田一族』)。それだけ、小山田家にとって信繁は特別な存在となっていたのだろう。

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 慶長20年(1615)4月、豊臣方は再び堀を掘り、櫓を再建し始め、挙兵の準備に取り掛かった。家康はこの一報を受け取ると、再び徳川方の大名に大坂攻めを発令。自身も駿府城を、秀忠は江戸を発し、大坂へ向かった。大坂夏の陣の勃発である。

 

●大坂夏の陣 道明寺・誉田の戦い

 この夏の陣でも信繁は他の武将を圧倒する活躍を見せる。その1つが5月6日の道明寺・誉田の戦いだ。京都から大坂へ向かう徳川方を迎え撃つため、豊臣方は後藤又兵衛先陣で道明寺村の小松山に布陣。信繁らも大坂城から出陣して小松山に向かうが、到着が大幅に遅れた(その理由には諸説あり)。後藤又兵衛は信繁らの到着を待たず徳川方、本多忠政軍、松平忠明軍、伊達政宗軍と戦闘を開始、激闘の末、壮絶な討ち死にを果たした。

 予定より8時間遅れて午後に石川左岸に布陣した信繁軍は、自身の軍3000に豊臣方の軍合わせて1万2000の兵で、勢いに乗る伊達政宗軍1万と誉田陵(現・応神天皇陵古墳)の南付近で激突。伊達軍先鋒の片倉重長の騎馬隊を自軍の鉄砲隊に待ち伏せさせ、ギリギリまで引きつけて攻撃するなど、見事な策で政宗軍の進軍を阻止し、石川まで押し戻した。

 

●誉田八幡宮

 誉田八幡宮近辺は古来、戦略上の要地であったため、再三合戦の舞台となった。大坂夏の陣の際には、豊臣方の武将、薄田兼相もこの境内に大陣を張り、この地より出撃して道明寺近辺で討ち死にを遂げた。真田信繁軍と伊達政宗軍が激突したのもこの辺りだと考えられている。境内には「誉田林古戦場跡」の石碑が建っている。

誉田八幡宮の境内にある誉田林古戦場跡の石碑
誉田八幡宮本殿。豊臣秀頼による社殿の再建中に大坂の陣が勃発してしまったため、拝殿の天井板はいまだに未完成のままとなっている

 

●応神天皇陵(誉田御廟山古墳)

 信繁と伊達政宗が熾烈な戦いを繰り広げたと考えられている場所の近くには応神天皇陵(誉田御廟山古墳)もある。応神天皇陵は5世紀初頭に築造されたといわれる、大仙陵古墳に次いで2番目に大規模な前方後円墳。誉田八幡宮から応神天皇陵にかかる放生橋は17世紀後半から18世紀前半頃に造られたものと考えられており、毎年9月15日の秋の大祭の夜には神輿がこの橋を渡って応神天皇陵古墳の堀の辺りまで運ばれ、祝詞の奏上や神楽の奉納などの神事が行われる。

誉田八幡宮から応神天皇陵(誉田御廟山古墳)にかかる放生橋。柵から向こうは立入禁止。柵を越えると警報が鳴るので注意しよう
後藤又兵衛らが壮絶な戦死を遂げた夏の陣・道明寺の戦い。その舞台となった場所に建つ道明寺(写真左)と道明寺天満宮(写真右)
近鉄「道明寺」駅前そばには「大坂夏の陣 道明寺合戦記念碑」が建てられている

誉田八幡宮
所在地:羽曳野市誉田3丁目2-8
連絡先:072-956-0635
アクセス:近鉄南大阪線「古市」駅下車徒歩約10分

応神天皇陵(誉田御廟山古墳)
所在地:羽曳野市誉田3・5・6丁目
連絡先:072-956-0635
アクセス:近鉄南大阪線「古市」駅下車徒歩約10分(誉田八幡宮側)