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連載NHK大河ドラマ「真田丸」の舞台 真田氏ゆかりの地をめぐる

第23回【誉田八幡宮・応神天皇陵(誉田御廟山)/志紀長吉神社】夏の陣で真田信繁と伊達政宗が激突した地と信繁が戦勝祈願の軍旗を奉納したと伝わる神社

『真田三代』 (火坂雅志 著)

2016/12/10

genre : エンタメ, 読書

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【志紀長吉神社】信繁が死の前日、戦勝祈願の軍旗を奉納したと伝わる神社

信繁が奉納したと伝わる軍旗

●「関東勢百万も候へ、男は一人もなく候」

 信繁は少ない兵力で伊達政宗軍相手に一歩も引かないどころか逆に押し戻すという闘いぶりを見せていたが、北方の八尾・若江の戦いで豊臣方が激戦の末敗れたため、信繁らにも大坂城への撤退命令が下った。信繁は撤退戦の最重要任務である殿(しんがり)を務めて、大坂城へ向かった。その際、信繁は伊達軍に向かって、「関東勢百万も候へ、男は一人もなく候」と大声で叫んだ(「北川覚書」)。「関東勢は百万もいても、その戦い方を見ても男と言える者は1人もいない」と挑発したのだ。しかし、伊達政宗は部隊に対して追撃命令を下さなかった。それまでの戦で弾薬や兵を消耗していたのがその主な理由だと考えられているが、信繁の知略を警戒してのことだったのかもしれない。その後、信繁は見事殿の重責を全うし、各部隊を無事大坂城へ退却させた。

 

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●志紀長吉神社

「中河内郡誌」によれば、信繁は道明寺・誉田の戦いに参戦した豊臣軍の殿として大坂城に撤退する途中、日陰明神(志紀長吉神社)に立ち寄って休憩し、麻地の六文銭軍旗と刀剣を奉納して翌日の最後の決戦での戦勝を祈願したという。志紀長吉神社にはその時の軍旗と伝わるものが残っている。軍旗は基本的には非公開だが、例年、1月2日、3日と5月4日の年3回、一般に公開されている。2016年は大河ドラマ「真田丸」放送を記念して、毎月第3日曜日にも公開。毎回50人~60人の見物客で賑わったという。

長さ2.4メートル、幅30センチの吹き流しの軍旗で、信繁本人が背に掲げていたと伝えられている
火縄銃や矢の貫通跡の穴や、戦火に焼かれた跡が生々しい。
志紀長吉神社本殿

 志紀長吉神社8代目宮司である鈴木理美氏の話によると、信繁と伊達政宗が戦ったと推定される場所から大坂城に戻る道は古市街道しかなく、その道を北に走ると川辺という村に出る。そこに馬場と神社(志紀長吉神社)があったので休憩がてら軍旗と刀剣を奉納して翌日の戦いの戦勝祈願をしたという。

志紀長吉神社の社務所に飾られている明治時代の志紀長吉神社参道の写真。周りには田んぼと松林しかない
現在の志紀長吉神社へ続く参道の様子。周囲はすっかり住宅街になっているが、信繁が死の前日、ここを駆け抜けたと想像すると胸が熱くなる

 志紀長吉神社の大鳥居のそばには信繁が馬を休めた馬場があったとされ、そこに「真田幸村休息所」の碑が建てられている。

「真田幸村休息所」の碑
 

 石碑の裏には「御神徳を(越)たたえまつりて、家が(可)の思う心のうちの霧はれて 神の利生に任せこそすれ」と彫られている。明治期に志紀長吉神社の先々代の宮司が史料に記された信繁の言葉とされるものを書物に書き写した。その言葉を彫ったもので、「死を目前にして、これからの真田家のことを思うと鬱々とした気持ちになるが、神様の力をお借りすることでその憂いが霧のように晴れた。今後のことも神のご利益に任せよう」というような意味。

 ここでしばしの休息を取った後、信繁は翌日の最後の合戦に向けて大坂城へと馬を走らせていった。

志紀長吉神社
所在地:大阪市平野区長吉長原2-8-23
連絡先:06-6709-1757
アクセス:大阪市営地下鉄谷町線「長原」駅徒歩5分
※「真田幸村休息所」の碑は、神社から参道を進み、大鳥居の前の大通りを渡って少し歩いた右手(ラーメン店の横)

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第23回【誉田八幡宮・応神天皇陵(誉田御廟山)/志紀長吉神社】夏の陣で真田信繁と伊達政宗が激突した地と信繁が戦勝祈願の軍旗を奉納したと伝わる神社

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