「ここが昔の殺人犯の屋敷跡だったことは知っています。ですが、どういう経緯でわたしたちの祖父がここを買って移り住んだのかは知りません。貝尾では事件のことを話すのは憚かられますので、これ以上はお話できません。まだ当時の生き残りのお年寄りも近所にはいますが、やはり話しませんよ。前に記者やレポーターが話を聞きにきたときも、血相を変えて怒鳴って追い返していましたから」
石塔の代わりに置かれた川の石
睦雄の墓は貝尾にはない。貝尾から20キロほど倉見川をさかのぼった山の奥地、倉見にある。
倉見から鏡野町へ抜ける幹線道路のすぐ脇にある山の斜面に睦雄と祖母の墓はある。
睦雄の墓に石塔はない。ただ握りこぶし3、4個分ほどの石がぽつんと置かれているだけの粗末な墓だ。その右隣には祖母いねの立派な石塔があつらえた墓がある。
この墓を守っているのが、冒頭で触れた睦雄の従兄弟に嫁いだ女性・菊代さん(取材当時80歳)で、事件当時の記憶を残す数少ない生き証人のひとりである。睦雄の祖母いねは、この女性の夫の祖母にあたる。
私が訪ねると、笑顔で家に迎え入れてくれた。菊代さんは睦雄のことを“むっちゃん”と親しみを込めて呼んでいた。
「むっちゃんは頭が良くて、よくできた子でしたよ。事件のあとはみんな驚きました。よほどほかの村人にいじめられていたんだろうなあ、って。うちのおじいさん(夫)は荒坂峠で自殺したむっちゃんの亡骸を5、6人で出かけて、ここ(倉見)まで運んできたんですよ。血染めの遺書には貝尾の人にいじめられた恨みの言葉がたくさんつづられていたそうです」
荒坂峠で死んだ睦雄の遺体は倉見まで運ばれ、ささやかながら葬儀も執り行なわれたという。睦雄の姉みな子も臨月をおして、津山一宮の嫁ぎ先からかけつけてきた。
倉見では事件当時は土葬が一般的であり、睦雄の遺体も一族の眠る墓地の下に土葬された。墓石を設けるかどうかというときに、ちょっとした口論が起きたという。
睦雄の姉は「せめて立派な石塔を作ってやりたい」と願った。しかし、姉の夫は「石塔なんてもってのほか。睦雄の墓だということは絶対他人に知られてはいけない」と言って、結局倉見の家の近くを流れる倉見川から拾ってきた、なんの変哲もない川の石を石塔代わりに睦雄の遺体を埋めた上に置いた。
祖母の遺体も倉見まで運ばれてきた。運搬に先立って、切断されていた首と胴体を糸と針で結びつけ、睦雄の右隣に埋葬した。