1938年(昭和13年)5月21日未明、岡山県の山間にある西加茂村(現在は津山市)の貝尾という集落で、30人もの老若男女がわずか1時間あまりの間に相次いで惨殺される事件が起きた。その事件こそが、世にいう「津山三十人殺し」である。
事件の犯人である、当時22歳の都井睦雄が最初に手にかけたのは、同じ家で眠る自身の祖母であった――。
ここでは、津山事件研究の第一人者であり、2022年6月に57歳で急逝した石川清さんの記録をまとめた『津山三十人殺し 最終報告書』(二見書房)より一部を抜粋して、睦雄の残虐な最初の殺人の一部始終を紹介する。(全4回の3回目/続きを読む)
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斧を手に祖母が眠る部屋に向かった睦雄
犯行直前には霧雨が降ったという。
そのため、犯行当日の夜に出歩く人間はほとんどいなかった。
さらに折からの養蚕のシーズンで忙しく、集落の家々では仮眠をとりながら蚕の番をしなくてはならなかった。
夜半に睦雄は、天井裏の秘密部屋の布団から起き上がった。
下の階にいる祖母いねは、すっかり寝入っていた。
睦雄はいねに気づかれないように、学生服のような黒セルの詰襟服に身を包み、茶褐色の巻きゲートル(脛に巻く布。怪我やうっ血を防ぎ、軍人は必ず使用した)を装着した。犯行前の時期から睦雄は天井裏で寝起きするようになっていた。
地下足袋を履き、あらかじめ準備しておいたふたつの懐中電灯を取りつけた鉢巻を頭に巻いた。この日のために購入した自転車用のナショナルバンドライトは、細紐をつけて首から胸に吊り下げた。薬莢や弾薬を入れた雑囊(今でいうリュックサックのようなもの)は左肩から右脇にかけた。
日本刀1振と匕首2口は左腰に差し込んで紐でしっかりと括った。その上からベルトのように革の帯で締めて、刀が揺れすぎないように整えた。揺れると動くので不便だからだ。
九連発のブローニング銃と弾薬実包約100個を携帯すると、睦雄はいったん屋外へ出た。屋外には、丁寧に磨いておいた斧があった。睦雄はそれを手に持って、室内に戻った。
こうして睦雄は準備を終えた。
睦雄の家は平屋で北側に土間があり、その土間から睦雄は天井裏の秘密部屋へ行き来した。土間のはずれには厠(トイレ)もあり、睦雄が深夜に天井裏から土間へ上り下りするのは、不審な行動ではなかった。
土間を上がると、睦雄の家には部屋が6間あった。いねは縁側に面する中央の6畳間のコタツで、頭を西に向けながら熟睡していた。
睦雄は眠っているいねを、上からゆっくりと見下ろした。その右手には大きな斧がしっかり握られていた。
祖母を殺害するために、睦雄が日本刀や猟銃ではなく斧を凶器として選んだ理由は、できるだけ音を立てたくなかったからだといわれている。また、日本刀を早々に使うことで血糊で切れ味が鈍ることを恐れたからではないかともいわれている。どちらも一理あるだろう。だが、斧で殺さなければならなかった重要な理由がほかにあったのではないだろうか。