1938年(昭和13年)5月21日未明、岡山県の山間にある西加茂村(現在は津山市)の貝尾という集落で、30人もの老若男女がわずか1時間あまりの間に相次いで惨殺される事件が起きた。その事件こそが、世にいう「津山三十人殺し」である。

 事件の犯人である、当時22歳の都井睦雄は一体どんな青年だったのか。ここでは、津山事件研究の第一人者であり、2022年6月に57歳で急逝した石川清さんの記録をまとめた『津山三十人殺し 最終報告書』(二見書房)より一部を抜粋して紹介する。

 事件から70年近くが経った2006年、事件が起きた貝尾や睦雄が生まれた倉見のあった加茂谷周辺を石川さんが訪れた際、当時を知る証言者から訊くことができた睦雄の人格とは――。(全4回の1回目/続きを読む

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津山事件が起こった集落・貝尾 ©石川清

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墓を守る女性

 2006年(平成18)、都井睦雄が生まれた倉見で、睦雄やその家族(祖母、両親)の墓を守る女性。この女性は睦雄の従兄弟と結婚しており、従兄妹の姻族にあたるが、睦雄と親交のあった従兄弟たちを通じて、間接的に睦雄の人間性を知る人物でもあった。

 事件発生時、この女性は倉見の下流の集落に住む小学生だった。貝尾で大量殺人が発覚した直後の朝は、加茂谷とその周辺全体がパニックに陥っていた。睦雄が猟銃や日本刀を持ったまま、山中に逃亡していたと見られていたからだ。睦雄が再び、無差別殺人に走るのではないか――とまことしやかに囁かれ、実際に学校では生徒たちに注意を促し、睦雄の自殺が判明するまで休校の措置などもとられたという。

 倉見で墓を守るこの女性も、当時は睦雄の凶行に恐怖した子どものひとりだった。だが、倉見の都井家に嫁に来て、睦雄の性格や事件当時の睦雄を取り巻く深刻なイジメ、いわば村八分のような事情を知った。そして、睦雄に対するイメージが変わったことで、直接面識のなかった亡き従兄妹の睦雄を「むっちゃん」と親しみを込めて呼んでいる。

「ここが殺人犯の屋敷だったことは知っています」

 貝尾の集落に入ると、左側に古い土塀の廃屋が見えてきた。つい最近まで人が住んでいた気配がする家で、土壁がところどころひび割れていた。この家は事件当時にもあったが、睦雄の襲撃を受けなかった。

 少し歩くと、睦雄の家があった場所にたどりついた。

睦雄がかつて住んでいた倉見の家 ©石川清

 事件後に担当検事が「構えだけは大きく立派であるが、古式蒼然かつ相当荒廃しているばかりでなく、屋内はなはだ暗く文字通り鬼気迫るの感ある家」と評した当時の家屋はもちろん今はなく、2階建ての立派な家があって人が暮らしている。

 事件後、相続人のなくなった睦雄の家は近親者によって50円で他村の者に売られ、その後はその子どもや孫たちが住んでいる。たまたま私が訪ねたとき、この家に住む女性と庭先で話すことができた。