「むっちゃんは、それは小さいときから賢いいい子でしたよ」
「むっちゃんは、それは小さいときから賢いいい子でしたよ」
睦雄の父親は、祖父が亡くなったあと、倉見の都井家の本家を継いだ。嫁(睦雄の母親)は山を越えた阿波の山村からもらった。
「昔は山の者は山の者と結婚することが多かったです。ですから、倉見の者はだいたい阿波や物見、越畑などと嫁のやりとりをしておりました。貝尾とはほとんど人の交流はありません。ただ、うちの人の祖母(睦雄の祖母でもある)だけは貝尾から嫁いできていました」
山の民から見れば、貝尾はどちらかといえば里の平地民である。だから、睦雄の祖母は慣れない山奥の暮らしには相当難儀したはずだ。
睦雄の父親が継いだ都井家は財産家だった。山と畑を所有していた。山は睦雄の墓のあるすぐ裏の大きな山である。睦雄の父親には兄弟が多くいたが、全員が家を出て、弟ふたりは隣に分家を作って暮らした。そのほかの兄弟はそもそも倉見自体を出て行ったという。
睦雄が2歳のときに父親が肺病(結核)で死に、また3歳のときには母親も結核で失った。家に残ったのは祖母いねと姉みな子、そして睦雄の3人だけとなった。
睦雄が4歳のときに祖母は突如睦雄姉弟を連れて、下流にある西加茂村の市街地の小中原に移住した(突然の移住の理由については後述する)。
睦雄が6歳のとき、祖母は都井本家の山林を500円で処分し、そのお金で故郷貝尾に土地と家を買って移り住んだ。このとき山林を売った相手は、都井本家から別れて隣に移り住んだ分家(祖母にとっての息子、睦雄にとっての叔父)だった。500円の受け取りには睦雄がひとりで倉見を訪れた。
「むっちゃんはよく頭のまわる子でねえ。お金を落としちゃいけないと、わざわざ服の裾の裏にお金を縫いつけて持ち帰ったんですよ」
犯行に走らざるを得ないほど睦雄を追いつめた村人
睦雄の犯した理不尽な凶行を容認するわけではもちろんないが、一方で睦雄が犯行に走らざるを得ないほどまでに追いつめられた哀しい事情も菊代さんは承知していた。
「お姉さんが嫁いだあとは、あまり話し相手もいなかったようですよ。しかも変な噂を流されて、かわいそうに相当傷ついていたようです。最初に村ぐるみでいじめたのはほかの村の人たちだったと聞いています。もちろん事件は悪いことなんですけれども」
そして、津山事件が発生した。
「わたしはまだ小学生でしたが、先生があわてて授業を中止にして“家に帰りなさい”と言いました。そのころ、倉見のほうではむっちゃんが自殺したなんて知らないから、親戚筋の人は“猟銃で襲われたら大変だ”と言って、何日か蔵で寝泊りしたんです。
ですが、実際にはむっちゃんが殺したのは、自分について悪い噂を流したり、自分をいじめたり、捨てた女性ばかりだったそうです。貝尾の近くに住むわたしらの親戚の家にもやってきたんですが、紙と鉛筆(最後の遺書を書くため)を借りていっただけで、危害はまったく加えませんでしたから」
菊代さんは睦雄が最後に訪ねた武元市松一家とも親戚関係にあった。
