1938年(昭和13年)5月21日未明、岡山県の山間にある西加茂村(現在は津山市)の貝尾という集落で、30人もの老若男女がわずか1時間あまりの間に相次いで惨殺される事件が起きた。その事件こそが、世にいう「津山三十人殺し」である。

 事件の犯人である、当時22歳の都井睦雄は一体どんな青年だったのか。ここでは、津山事件研究の第一人者であり、2022年6月に57歳で急逝した石川清さんの記録をまとめた『津山三十人殺し 最終報告書』(二見書房)より一部を抜粋して紹介する。

 2010年、石川さんは“津山事件の生き残り”である寺井ゆり子さん(仮名)を訪ねて話を聞いた。彼女は睦雄が執心し、横恋慕を重ねたとされる女性でもある。事件から80年以上が経ってから語られる被害者の思いとは――。(全4回の4回目/最初から読む

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津山事件が起こった集落・貝尾 ©石川清

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「あー、誰にも言いたくないし、思い出したくないわぁ」

 2010年(平成22)10月――私は思い切ってゆり子の家を訪ねた。

 ゆり子は家にいた。

 94歳(当時)になってはいたが、元気だった。耳こそ遠くなっていたが、毎日のように運動もするし、テレビも楽しんで観ているという。

 若いころは相当な美人だったのだろう。目鼻立ちははっきりしており、その手は今も柔らかく、きれいで温かかった。

 私が睦雄と事件のことについて聞きたいと言うと、彼女はこう言った。

「あー、誰にも言いたくないし、思い出したくないわぁ。東京からよう来てくださったけれど、悪いなぁ、話せませんのですぅ。家族5人を殺されて、情けのうて、哀しくて……」

 しかし、ゆり子は生来の話し好きのようで、やがてゆっくりと昔を思い出しながら話をしてくれた。

 ゆり子と睦雄は小学校からの同級生だった。睦雄は小さいときは、それは頭が良かったという。

 だが、睦雄の両親が肺病で死んだことが発覚したあたりから、素行がおかしくなったという。女性たちを付け回すようになり、次第に村の中でも浮いた存在となり、嫌われだした。ゆり子も外の道で睦雄と出くわすと、田んぼの畦にわざわざ入って大きく迂回して、睦雄を避けたという。

 事件の直前の時点では、睦雄はほとんど村八分状態になっていたという。

 “睦雄はいずれ何か恐ろしいことをしでかすから”と言って、貝尾の外へ逃げ出した女性(寺井マツ子のこと)もいたという。

 惨劇の夜、ゆり子は睦雄が自分を狙ってくるのをうすうす感づいていたという。だから、騒動が起きたと気づいた直後、いち早く逃げた。家族5人は殺害されたが(まさか家族まで殺害されるとは思わなかったようだ)、ゆり子は必死で近くの家に逃げ込んで、匿ってもらった。そうしたら、その家のお爺さん(寺井孝四郎のこと)までが睦雄に殺されてしまった。

「本当に申し訳ないことをしましたぁ。情けないですわぁ」

 ゆり子は目に涙をためて訴えた。