最近になって、ようやくゆり子は幸せを実感できるようになったという。
「今はデイサービスがいちばん楽しいです。友達もいるし、迎えに来てくれますし」
取材を終えたあと、ゆり子は私に紙の鍋敷きをくれた。彼女の手製の贈り物である。
ゆり子は、優しい素敵なお婆ちゃんだった。
ゆり子、逝く――
2016年(平成28)の秋ごろのことだった。
岡山在住のIさんからメールが届いた。Iさんは、津山事件の取材で何度もお世話になっている人物だ。メールは短く次のように記されていた。
「津山事件の生き残りであった寺井ゆり子さんが亡くなられたようです。ご冥福を祈ります」
メールには画像が一枚添付されていた。地方新聞のお悔やみ欄に掲載された記事を写したものだった。そこには確かに次のように記されていた。
寺井ゆり子99 加茂町○○
もちろん、寺井ゆり子というのは、仮名である。
ゆり子は、確かに加茂町○○に住んでおり、2010年の秋に私はゆり子の自宅を訪ね、3時間あまりにわたって事件のことについて話を聞いていた。
間違いなかった。寺井ゆり子は、2016年10月5日に他界していた。享年99歳(満年齢)だった。
“ゆり子逝く”の報を聞いて、私の心の中に何かポッカリと大きな穴が空いてしまったような感覚に陥った。
津山事件の取材を20年以上続けてきた私にとって、ゆり子は最も重要な事件の関係者だったからだ。
ゆり子と睦雄の出会い
睦雄がゆり子と出会ったのは、おそらく睦雄が5歳、ゆり子が4歳のころだった。
当時、同じ集落にゆり子が住んでいた。ゆり子と睦雄は一応遠縁の親戚筋にあたる。ただ、貝尾のような小さな集落では、住人のほとんどがなんらかの血縁関係を持っていた。
睦雄はおとなしく頭のいい、色白でかわいい男の子だった。一方、ゆり子は活発で、男まさりの元気な女の子だったという。
ふたりが西加茂尋常小学校にそろって入学したのは、大正13年のことだ。
やがて、睦雄はゆり子に恋心を抱きはじめた。
睦雄は遺書のなかで、ゆり子と「関係があった」と記しているが、真偽のほどはどうなのだろうか。
私は、2010年の取材でこの点について、ゆり子に直接尋ねると、彼女ははっきりとした口調で否定した。
「そんなことはないです」
一方、近隣の村人で当時を知る人は、「関係はあっただろう」と話している。
真偽のほどはわからない。だが、睦雄がゆり子に対して、異性として特別な感情を抱いていたことは間違いなかった。
別れ際、私はゆり子に小学校で同級生だったころの睦雄の印象を改めて尋ねてみた。
「むっちゃん(睦雄)の思い出ですか? そうですね。大人しくて、真面目でしたよ。子どものときは、けっこう優しいところもありました……」
晩年のゆり子は散歩が好きだった。大きな乳母車を押しながら、よく近所の山間の田園地帯を散歩していた。
笑顔を浮かべてゆったりとした足取りで歩くその姿は、今も私の脳裏にしっかりと刻み込まれている――。