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事件後、睦雄との関係を邪推され続けた

 辛かったのは、睦雄との関係を邪推され続けたことだったという。

 自分は睦雄とは関係がなく、睦雄のほうが一方的に迫ってきただけだった。だから、とても恐かった。肉親をことごとく惨殺されながら、よりによって加害者である睦雄との関係を邪推され続けた。これは本当に辛かったという。

 事件後、ゆり子は嫁ぎ先に戻った。事件から4年後の昭和17年(1942)に長女が産まれ、長女を筆頭に3人の子宝に恵まれた。

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 夫はほどなく戦争に行ったが、出征先で1ヵ月後に倒れた。結核だった。やがて戦場から故郷に戻ってきた夫は、津山の病院への入退院を繰り返した。

 ゆり子は家の全財産を夫の治療につぎ込んだ。結核は治療に金のかかる病だった。夫の病状はなかなか回復しなかった。そして、治療のかいもなく、夫は昭和24年(1949)に亡くなった。

 だが、ゆり子に悲しむ暇などなかった。3人の幼な子を育てなくてならなかった。しかもその頃、夫の母親が半身不随になり、寝たきりの状態となった。みな子にとって義母の介護は大きな負担となった。義母のわがままはひどく、その介護は艱難辛苦(かんなんしんく)を極めたという。

 ゆり子は一家の大黒柱として、女手ひとつで生活や財産も守らなくてならなかった。ゆり子の嫁ぎ先は、村の共有林に一定の権利を持っていた。1年に一度、共有林から切り出した木材を販売し、その利益は村人みんなで分配した。だが、利益の分配を受けられるのは、共有林の整備に労働力を提供した家だけだった。だが、女ひとりのゆり子に何ができよう。そこで、ゆり子は隣村やその先の村まで出かけて、日当を出して自分の代わりに作業をやってくれる人間を雇った。仕事、畑、育児、義母の介護……ゆり子の日常はまさに火の車だった。

 だが、夫の遺族年金が支給されるようになってから、少しずつ生活に余裕が出てきた。もともとが倹約家だったゆり子は、のちに村でも屈指の立派な家を新築するまでになった。

 このために、ゆり子一家は周囲に嫉妬され、睦雄の隠し子疑惑など、事実無根の噂を流された。