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睦雄の姉みな子も厳格だった

 2010年(平成22)、睦雄の姉みな子の息子(津山事件当時はみな子のお腹の中にいた)が私にこう語ってくれた。

「母(みな子)は平成3年(1991)6月3日に亡くなりました。76歳でした。私には津山事件のことや叔父(睦雄)のことは、まったく話してくれませんでした。

 母は、とても人当たりが良く、明るくて周りの人に好かれる人でした。結婚の仲人をよくしていましたが、わたし自身は母が苦手でした。だから、高校を出たらすぐに就職して家を出たんです。

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 わたしが母を苦手だった理由は、とにかく子どもや孫に対しては厳しく、容赦がなかったからです。間違ったことをすると、すごかったです。怒って、馬乗りになってひっぱたくんですよ。まあ、昔の人のしつけとしては普通だったのかもしれませんけれど、そのころのほかの家のしつけと比べても、格段に厳しかったです。わたしの子ども(みな子の孫)が母の家に下宿していた高校生のときも、そんな感じだったみたいです。家の外の他人には明るくて優しい人にしか見えなかったんですけれどね」

 みな子は、外の人には人当たりのいい優しいおばあさん、身内や家族に対しては鉄拳制裁も辞さない厳格な母であり祖母だった。間違ったことは大嫌いで、理不尽なことがあれば、昔の津山市長にも公然と食ってかかったことがあるという。温和で働き者だったというみな子の夫とはまるで正反対の性格だった。

厳格な祖母には頭が上がらなかった睦雄

 みな子も睦雄同様、おばあちゃんっ子だった。祖母いねに、手取り足取り躾けられたのだ。

 いねは、まがりなりにも由緒ある倉見の都井本家に嫁入りした。だから、旧家の厳格な躾や習慣が身についていた。

 みな子が時に鉄拳制裁も辞さなかったように、育ての祖母であるいねも同様にみな子と睦雄に接した。

 睦雄は甘やかされただけでなく、厳格な祖母の厳しい躾をずっと受けてきた。だから、祖母にはなかなか頭が上がらなかった。

 睦雄に殺害された岸田つきよは、10円札を押しつけて睦雄が情交させてくれと迫ってくると、からかうようにこう言い放った。

「そんなことをするのなら、この金をばあさんのところへ持って行って話をするぞ、と言ってやったら、睦雄はすごすごと帰った」(事件後の寺井マツ子の証言)

 睦雄がむちゃなことをしてきたら、「ばあさんに言うぞ」と言い返していたのだ。すると、睦雄が黙ってしまうことを皆が知っていた。

 “絆し”を断ち切ること、そしていねに対する恐怖心──それが睦雄に斧を握らせた理由ではないだろうか。