「あたし、××なんです」。一人称独白体の官能小説で一世を風靡した作家・宇能鴻一郎(1934〜2024)。生前、その邸宅を訪れた経験を持つ作家・エッセイストの平松洋子氏が、宇能文学の核心に迫る。

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2011年に訪ねた宇能邸

「2024年8月28日 宇能鴻一郎氏逝去」。新聞の訃報欄を目にしたとき、私の脳裏にひとつの感情が浮かんだ――ひとりの人間の長い戦後がようやく終わった。

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 私が横浜・金沢八景の宇能邸を訪ねたのは13年前、2011年晩夏だった。駅のホームに降り立ってなお半信半疑だったのは、これから会う人物が何十年間もマスメディアに出ておらず、「名のみ高く、その姿を見たものがない唯一の文士」などと語られてきたからだ(このときの会見記「宇能鴻一郎と会って 官能のモーツアルトと呼ばれたい」の初出は「オール讀物」2011年10月号)。

燕尾服に身を包んだ宇能鴻一郎 Ⓒ文藝春秋

 じっさい、屋敷からして現実離れしていた。鬱蒼とした敷地600坪に建つ洋館。靴のまま玄関ホールを進むと、細長い廊下に巨大な虎の毛皮の敷物。通されたのは社交ダンス用の広大なボールルーム。舞台装置さながらの螺旋階段をゆっくりと降りてきた白髪長身の男性は、燕尾服に身を包んでいた。

 私を見据える眼鏡の奥の鋭い眼光。

「ようこそいらっしゃいました。お名前はかねがね存じております」

 そのとき直観した。語りたいのだ、と。