上皇さまは12月23日、91歳の誕生日を迎えられた。旧皇族・伏見宮家当主だった伏見博明氏(終戦時、伏見宮博明王)は、上皇さまの三従兄にあたり、日光に疎開する前の幼少期から、ともに過ごす時間も多かったという。

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上皇さまの御伴で日光金谷ホテルに疎開

 戦争末期、中等科時代の昭和20(1945)年3月には日光に特別疎開しました。その前から上皇さまは日光の田母沢御用邸に疎開。私と同学年の生徒は山形の鶴岡に疎開したのですが、私と朝鮮王朝の直系だった李玖さんは、上皇さまの御伴で日光金谷ホテルに疎開したのです。

 日中は金谷ホテルで李玖さんと一緒に授業を受けました。先生が付き切りで教えるので勉強は大変でしたよ。今でも上皇さまに「なんで僕は同級生と離れて日光にご一緒しなければならなかったんですか」と言うと、上皇さまは笑って「知りませんよ」とおっしゃるんです(笑)。

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皇太子時代の上皇さまと美智子さま Ⓒ文藝春秋

 上皇さまは授業が終わると御用邸にお戻りになります。私は毎日豆が入ったご飯を食べていましたが、上皇さまは御用邸で違ったものを召し上がっていたのではないでしょうか。

 授業のない日などにはホテルの近くを流れる大谷(だいや)川で上皇さまと釣りをしたのを思い出します。釣った魚は料理してもらって食べました。

 ラジオからは毎日のように「東京に焼夷弾が落ちた」といったニュースが流れてきましたが、なんとなく「殿下と一緒にいる限りは安心なのかな」と思っていました。ところが、一度も見たことのなかったB29が7月に一度だけやってきた。これは危ないというので、私と李玖さんは那須に移り、上皇さまは御用邸から奥日光の南間ホテルに疎開されました。そこで上皇さまとは別れたのです。

皇太子時代の上皇さまと美智子さま Ⓒ文藝春秋

 だから私が玉音放送を聞いたのは李王家の那須の別荘で李玖さんと一緒でした。天皇陛下はどうなるのだろう、それが一番の心配でした。後で聞いた話ですが、敗戦直前、皇統を護るため北白川宮道久王を四国の山中にかくまおうという計画があったそうです。今でもかくまおうとしたその家が残っていて、私も何度か行きました。本当に山奥でね。上皇さまにそのお話をしたことがあるんですが、上皇さまは「じゃあ見に行きたいね」とおっしゃっていました。