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 自分の商売へのセンス、機転には自信があったのに。料理の心得も知識も付けたのに。20代半ばを超え、時代は大正が終わろうとするころ。尾津はまた商人から離れた。気分は日々、荒んでいった。

やくざの顔で新宿の街をうろつき、紛争の仲裁にかかわるように…

 鬼熊の異名をとって、ふたたび舎弟分を引き連れて新宿の街をうろつくうち、紛争の調停が早くも持ち込まれてくる。言うまでもなく、尾津のその身から、また子分たちから、噴き上がっている示威力を期待されてのこと。

 たとえば、劇場乗っ取り計画の解決。震災の焼け跡に劇場の建設予定があり、賭場を開いていた右翼団体のリーダーが我が物にしようと企んでいた。子分も抱えており、完全なる暴力団の親分である。尾津は劇場側に依頼され、単身乗り込んで親分方と談判し、乗っ取りは無事に水に流れた。

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 しかし、本当は単身、ではなかった。親分方の建物付近に若い衆を見えるように配置し、なにかあれば相手にも相当の被害が出ることを匂わせた。

 結局、示威力で事態を収拾して御礼をもらっているのだ。尾津はこのとき、完全なやくざの顔をしていた。

写真はイメージ ©アフロ

「皇国決心団」なる組織を結成

 自分を慕って付いてくる若い衆を食わせなければならない。そして示威力で商売するのならば、自分の名を出すだけで事態が収拾されるよう、名を上げないとならない。鬼熊の異名でなく、平井扇風(尾津の別名、雅号)の名を上げたかった。

 尾津は、池袋へ出る。鳥取県知事や貴族院議員を歴任した武井守正男爵の旧宅が借家に出されていたのか、借りられることがわかると、昔の仲間、子分を30名ほどあつめ、ここに「皇国決心団」なる組織を結成した。

 この名から、純粋な政治結社などと思ってはいけない。10代のころ作った「紫義団」と実質は大きくは変わらない。紫義団のころは子ども同士で小銭を集めていたのだろうが、今度は過激な政治活動によって名を上げ、各所よりカネを引き出そうと企図していた。

 警察的表現を借りるなら「政治ゴロ」、現在でいえば半グレ組織にきわめて近い。やったことは無茶苦茶、この男の生涯でも最も無茶苦茶な時期でもあった。