戦後新宿の闇市でいち早く頭角を現し、焦土の東京に君臨した“伝説のテキヤ”尾津喜之助。アウトローな人生を歩んでいた彼は、どのようにして「街の商工大臣」と称されるようになったのか?
ここでは、ノンフィクション作家のフリート横田氏が、尾津喜之助の破天荒な生涯を綴った『新宿をつくった男 戦後闇市の王・尾津喜之助と昭和裏面史』(毎日新聞出版)より一部を抜粋・再構成して紹介する(全4回の3回目/4回目に続く)
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新宿でうなぎ屋を開店するが、昔の悪い仲間が出入りするように
大きな資金を得た尾津は、露店ではなく、ついに実店舗を新宿に買ってうなぎ屋を開店する。これを機に、露店商から足を洗おう。そう決めると、板前を3人も雇い入れ、自分でもうなぎをさばこうとねじり鉢巻きをしめた。
震災余波の不景気で日々お茶をひいているばかりの中野新橋の元芸者も給仕係として入れてみた。するとまたも、面白いように、客がするすると入りはじめたのだった。
震災前後に始めた商売は、こうして全てが成功。表情のゆらぎはおさまり、商売人の「いい顔」ができるようになった。その矢先……月に叢雲花に風(つきにむらくもはなにかぜ)。
流行れば流行るほど、歓迎しない者がしだいに寄りついてくるようになってきた。昔の悪い仲間が評判を聞きつけ、「おう兄弟」などとヘラヘラ店へ顔を出しにくるようになってしまったのだ。
「こんな、犬みたいなやつらと付き合うのはもういやだ!」
ただ飯を食らい、ただ酒を飲む。しばらくは昔のよしみで許していたが、そうなると余計に調子にのって、しだいに酔って客にちょっかいを出す者も出てきた。あるとき客になんくせをつけだした男を目にしたとき、持前の癇癪玉(かんしゃくだま)、久々の大爆発。
「こんな、犬みたいなやつらと付き合うのはもういやだ!」
尾津は、新しい鉢巻きを放り投げ、襟首をひっつかんで男らもオモテへ放り出し、散々にたたきのめしてしまった。数日後、その子分らがお返しにやってきたが、鬱憤を晴らすように返り討ちにし、新宿の往来で、大立ち回りを見せつけてしまった。
いつの時代も、いざこざの起こりそうな面倒な店に客は寄り付かないもの。あっという間に傾いていく店。これで尾津は商売がいやになり、結局、店をたたんだ。
ゆらゆらゆれていた商人の顔が遠くへ去り、鬼が寄る。一転、荒んだ生活へと入っていこうとする尾津を、人はこう呼んだ。「新宿の鬼熊」。