戦後新宿の闇市でいち早く頭角を現し、焦土の東京に君臨した“伝説のテキヤ”尾津喜之助。アウトローな人生を歩んでいた彼は、どのようにして「街の商工大臣」と称されるようになったのか?

 ここでは、ノンフィクション作家のフリート横田氏が、尾津喜之助の破天荒な生涯を綴った『新宿をつくった男 戦後闇市の王・尾津喜之助と昭和裏面史』(毎日新聞出版)より一部を抜粋・再構成して紹介する。(全4回の2回目/3回目に続く)

写真はイメージ ©アフロ

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19歳のとき、平井工務所で働くことに

 大阪へ流れた喜之助19歳。初の子分は、31歳だった。東京者が大阪の荒くれ者が集う一角に入り込んで年上の子分まで作るのだから、押し出しも相当に強く態度も大きかった。子分が3人にまで増えたとき、平井進という土建業者に拾われる。

 繰り返しになるが、戦前のこのころ、若き喜之助が先の戦後警察の分類など知るはずもない。子分を持ったといっても、職種は土木建設業者である。ではこの時期の喜之助は、やくざといえるかどうか。読者はどう規定するだろうか。

 平井のところは、平井組、ではなく平井工務所と言った。所長の平井進は工学士でもあり、組織は「組」ふうではなく、平井商店、というくらいの規模ながら、封建的とまではいえないゆるやかな上下関係で運営されていた。

 一方同じ土地に、競合として赤田組があった。こちらは十分に封建的だった。大阪造兵廠関連の仕事を平井工務所と赤田組は二分していたが、互いの若い者たちには交流があって、いったりきたりし、現場を終えた後は、一緒に博打に興じることさえあった。

穏健な平井が、赤田組の若い衆に袋叩きにされてしまう

 ある日、平井組の詰め所で赤田の若い衆がいつものように博打をやっていると、なんのはずみか平井のところの1人が赤田の若い者といさかいになり、つい手が出てしまった。血の気は少なく穏健な平井は、ただちに酒をもって赤田組へ謝りに行くと、その席で、突然袋叩きにされ、のびてしまう。

 お付きの若い衆が逃げ帰って事務所内へ急報すると、おとなしい平井工務所の面々はふるえあがってしまった。とはいえ、どうにか落とし前をつけなければ所長は帰ってこられない。ひとり立ち上がったのが、尾津喜之助。