戦後新宿の闇市でいち早く頭角を現し、焦土の東京に君臨した“伝説のテキヤ”尾津喜之助。アウトローな人生を歩んでいた彼は、どのようにして「街の商工大臣」と称されるようになったのか?

 ここでは、ノンフィクション作家のフリート横田氏が、尾津喜之助の破天荒な生涯を綴った『新宿をつくった男 戦後闇市の王・尾津喜之助と昭和裏面史』(毎日新聞出版)より一部を抜粋・再構成して紹介する。(全2回の2回目/1回目から続く)

写真はイメージです ©tonkoAFLO/イメージマート

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戦後の交通問題解消を図った「尾津な輪タク」

 昭和22年が明けても、東京の混乱は収まらない。

 いまだ交通事情は最悪で、省線電車も都電も殺人的満員状態。これを解決する手はなにかないか――。

 実は前年の頭、尾津は自転車の後ろに座席と車をつけて人を乗せる自転車タクシー、「輪タク」をやってはどうかと思いついていた。

 思いついたらすぐに動き出す男だから、営業許可をとろうと行政機関各所を回り始めたが、たらいまわしになるばかりで、全然らちがあかない。困った末に青果業者のドン、盟友の大澤常太郎に相談すると、時の厚生大臣河合良成に面会できることになった。

 大臣に一通り現状と打開策を説明すると、一挙に許可が出た。尾津が奇策を次々に、身勝手にやる無法者のように後世捉えられがちだが、自分の資金力・人脈を背景にこうして権力側に接近し、強引にであっても合法化してコトを起こそうとしていたスタイルは見逃してはならない。

またたく間に200台をこしらえた尾津の財力

 物のない時代にオリジナルで乗り物を作るわけだから、一般の起業者なら材料入手に苦労するところだが、そこはテキヤだけにお手のもの。旧軍のデッドストック品だろうか、ジュラルミンを大量に見つけてきて、自動車工場へ持ち込み、またたく間に200台をこしらえた。

 当時のカネで1台2万円だったという。本人談によるから、いささか数字は誇張を感じるところがあるが、尾津に財力があったことはわかる。