曳き子は露店と同様に、戦災者、引揚者をつのった。交通機関復旧の一助を狙うだけでなく、やはり都内に溢れる弱い立場の人々を救おうとしたのだった。面白いのは、曳き子には職を斡旋するのと同時にもう1つ、ボランティア活動を課したこと。
月に1回、東京の復興を助けよ、ということで、日比谷公園や皇居前広場などの清掃をさせたのだった。200台もタクシーを用意したのは、新宿にとどまらず都内広く事業を展開しようとしたため。上野、池袋、日本橋にも支店を設けた。一区間(たとえば新宿・四谷間)の料金は10円。
テキヤとは思えぬアイデアマンぶりを発揮
そして、コピーライター的才能をまたも輝かせる尾津。タクシーの名は、
――オツな(尾津な)輪タク――
「光は新宿より」を掲げマーケットを開き、無料診療所や無料葬儀屋をはじめ、今度もまた掴みはOKのコピーを掲げつつ輪タクまで始めるに及び、テキヤとは思えぬそのアイデアマンぶりに、尾津にはブレーンとして、マスコミの帝王といわれたジャーナリスト、大宅壮一がいるのではという噂がたつほどであった。
こうして2月20日、尾津な輪タクは都内を走り出した。物事が前へ前へと走り出すときこそ、足をすくわれる。翌月、尾津の表情はまた暗く、重苦しくなる。
3月19日、尾津は新宿マーケットの土地問題にからみ、東京区検に身柄非拘束のまま書類送局(送検)されてしまう。それでもこれで土地問題はカタがつくのでは、と踏んでいた。尾津側の弁護士には、政治団体をやっていたとき諫めてくれた米村嘉一郎がついた。あの赤化防止団の総帥だった人物である。
突如として、衆院選出馬を表明
翌4月、尾津は突如として、あまりにも意外な、世間も驚く一手を指す。戦後2回目を数えた衆院総選挙に、なんと東京1区から出馬を表明した。同区には浅沼稲次郎、野坂参三ら、名の通った政治家がいた。
読者にとっても唐突な印象を与えたと思うが、同時代の同業者をもう少しゆっくり見回してみると、必ずしも突飛な行動とはいえない。
実はテキヤが政治進出していくのは珍しくなく、東京でも区議や都議へと転身した親分は何人もいる。たとえば蒲田駅前のマーケットを仕切った醍醐安之助は、テキヤ組合の蒲田支部長をつとめ、蒲田駅前のマーケットの差配や人夫出しを行う親分だったが、尾津の国政出馬と時を同じくした昭和22年に都議会議員選挙に出馬、初当選している。