戦後新宿の闇市でいち早く頭角を現し、焦土の東京に君臨した“伝説のテキヤ”尾津喜之助。アウトローな人生を歩んでいた彼は、どのようにして「街の商工大臣」と称されるようになったのか?
ここでは、ノンフィクション作家のフリート横田氏が、尾津喜之助の破天荒な生涯を綴った『新宿をつくった男 戦後闇市の王・尾津喜之助と昭和裏面史』(毎日新聞出版)より一部を抜粋・再構成して紹介する。(全2回の1回目/2回目に続く)
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東京商工会議所は尾津喜之助が生みの親だった
尾津は、即戦力、中途採用組と言えるような立場でテキヤ業界に入門してきている。そのことで、2つの顔(編注:商人としての顔と侠客としての顔)を折々でゆらゆら変え、場面によっては尾津流商法、また別の場面では尾津流渡世ともいえる顔を使い分けて行動している。
昭和21年に入ると、混乱した時代のほうから、尾津にそれぞれの顔をみせてくれと、大きな話が持ちこまれてきた。まずは、商人、財界人としての尾津に持ち込まれた“顔話”。
ここで、この時期から20年ほど後に書かれた財界史の一部を引用する。
政治団体やバク徒の縄バリならともかく、日本を代表する国際的経済団体・商工会議所が、親分・尾津の力によって誕生したという事実は、やはり戦後財界の特異性を証明するに十分であろう。(『戦後日本財界史』鈴木松夫 実業之日本社)
この国の代表的経済団体、東京商工会議所は、驚くべきことに、尾津喜之助が生みの親だった。
終戦後、2つの経済団体が設立されようとしていた
そもそも戦中、商工会議所の前身ともいえる商工経済会は戦争遂行に協力していたが、終戦後、進駐軍により解散を指令され、昭和21年春に、財界人らがあらためて任意団体として商工会議所を設立しようと動いていた。
定款も整い、さあ申請だと関係者らが都庁へ赴くと、奇妙な事態が同時並行して進んでいたことを知る。なんと、同工異曲のようにして社団法人民主東京会議所なる別組織が設立されようとしていた。