アメリカ人記者が証言した商工会議所設立記念の会での“事件”

 ……という起承転結備わった見事なストーリーで、尾津も冷静沈着にみえるが、かくも整然とは物事が進まなかったのではないかと思わせる、ぜんぜん別の状況を証言した者がいる。UP(ユナイテッド・プレス)記者を経てニューヨーク・ポストの在日特派員となっていたダレル・ベリガン。

 日本のやくざ社会の封建性を厳しく批判した記事をこのころさかんに書いていたアメリカ人だが、尾津のことを日本のマフィアのボスとして取り上げている。彼の目には、テキヤたちは皆、「与太者」と映る。

 ベリガンによれば、はれて合流成った商工会議所設立記念の会で、一事件があったという。

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 幹部たちが集まって記事用の写真撮影をする場面。着任する新生・商工会議所の副会頭が、とくになにも意識せず、尾津をさしおいて先に座ってしまい、そのまま写真におさまろうとした。すると突如尾津は激怒、副会頭を投げ飛ばし、「商工会議所は俺がカネを出して作ったのにけしからん」と罵声を浴びせた。という。そこには海外メディアも取材に訪れていた。

 尾津は後年、おのれの癇癪玉爆発話を平気でいくつも披露しているが、この一件については少しも触れておらず、ベリガンがどんな取材をもとに書いたエピソードなのかもはやたしかめる術もない。それに、ベリガンの著作を筆者が目を通した限り、任侠組織への事実誤認や誇張があり、この話も誇張されている可能性は多いにある。事実かどうかも疑いが残る。

尾津に期待された「任侠者の顔」

 確実に言えるのは、合流する両陣営の幹部に「みっともねえ」と尾津が感じる人物自体はいたこと、そして、仲裁を頼んだ人々は尾津や尾津の組織が持つこうした暴力性、示威力による事態の打開をどこか期待していたことである。

 依頼人たちは尾津に、商人の顔で会議所の門を堂々とくぐってもらい、中に入ってしまえば、任侠者の顔をしてもらっての混乱突破を願ったのである。尾津はゆらぐ顔を要求通りに都合良く使い分けた。

 さて取りまとまった最終的な尾津案は以下。

 まず両派の不良分子には辞めてもらう。辞めた者には金銭を出して援助する。人事は会頭1名は保守派から。副会頭2名のうち1名を革新派から。というもの。要するにたすきがけ人事だ。両派に異論はなかった。こうして昭和21年7月、東京商工会議所が設立された。12月20日には丸ノ内精養軒で盛大な「手打ち式」が行われ、尾津も参与の席を与えられた。

 のち、薩長同盟を結ばせるのに奔走した坂本龍馬よろしく、尾津の功績は讃えられ、商工会議所から感謝状が贈られることになった。そのとき闇市の龍馬は、街にいなかった。監獄にいた。伝達式が行われたのは、刑務所。

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