財界人らによる前者団体は、大日本麦酒(アサヒビールやサッポロビールの前身)社長を中心とした大企業や財閥系企業によるいわば保守派。対して後者団体、民主――のほうは、リーダーが街の電器商という革新派だった。
戦後民主主義が声高に叫ばれたこのころ、零細業者らの心情は、後者に引き寄せられていた。なんと、誰に誘われたか、尾津は2つのグループがあることを知らないまま後者革新派に加入してしまっていた。
一本化するための調停役として、尾津に白羽の矢が立った
都としてはなんとか一本化してほしく、折衝をうながしていたものの、誰が間に入って調整しようとうまくいかない。保守派の理事には、尾津が尊敬していた青果物協同組合の大澤常太郎がいたから、その線からとも、ミツワ石鹼社長からの依頼とも言われたが、ともかく尾津に一本化調停の白羽の矢が立つ。保守派からみれば、革新派に尾津の名があるのは脅威になったこともあるだろう。
それでもテキヤの親分に白羽の矢が立つこと自体がかなり奇妙に見える。これは財界から見て、テキヤが完全な「やくざ」者ではなく、自分たちと同族、商人とみなしていたことの証拠と言っていいだろう。
戦災者が手っ取り早くはじめられる露店は、戦争終結直後のころ、根無し草が風に飛んで行くように店主はコロコロ変わるし、行き当たりばったりの素人商売と目されていたが、都内各所に大規模なマーケットが形作られるに及んでは、その状態をいち早く脱し、仕入れや組織の体系を整えボランタリーチェーン化しようという動きも生まれていた。
尾津は東京露店商同業組合の理事長である。都内全域に広がる露店業界は全体としてみればそれなりの経済規模にまで育ち、組織化も進めようとする商業者勢力のひとつと財界の人々はみなしはじめていたのだった。
しかし同時に露店は、もっとも資力のない零細事業者の集まりでもある。大企業の社長より、市民感覚を持つリーダーとして、尾津には保革両陣営の話を聞けることが期待されたのだ。