のち11期42年にわたり都議を務め、昭和39年には都議会副議長に就任、昭和東京五輪の実行委員もつとめ、昭和48年には第24代議長にまで栄達した。あの石原慎太郎をバックアップしたことでも知られる。
新宿の大親分として並び称された安田組の安田朝信も自由党系の新宿区議会議員を3期つとめている。尾津は安田の向こうを張り、「やつが区議なら俺は国会に打って出る」と考えたのだろうし、選挙戦を制す勝算も十分に持っていた。
自由党、民主党、社会党から続々とラブコールがかかり…
露店組合のリーダーに就任して話題を集め、時の人になっていたからだ。すでに政治家に知己も多く、なにより相当のカネを持つとみられていた尾津は、出馬より少し前、保革両陣営から熱心な勧誘を受けてもいた。
自由党、民主党、社会党から続々とラブコールがかかり、まず自由党は大野伴睦らが寄付金と党公認をひきかえに口説きにきた。現在の感覚では信じがたいことだが、大野と尾津は兄弟分の盃をかわしてさえいた。三田の料亭へ呼ばれて出向くと、大野らのほかに石橋湛山も席についていた。尾津の表情が曇る。石橋に対しては苦い思い出があった。
終戦後、尾津の子分のひとりが大久保に傷痍軍人の授産所(身体障害者への就労支援施設)を建てた。そこへ石橋がやってきて演説をしたのだが、これが長かった。自由党の政治に不満があった尾津は、あおざめた顔の元兵士たち大勢の前で、現実感のない正論を述べ続ける石橋に腹が立ってきた。
悪い癖が出る。
「言ってることとやってることが違う」
政治家先生を相手に、公衆の面前で癇癪玉を爆発させてしまった。このときの苦い記憶は尾津のなかで「借り」となって残っていたし、ほかの有力者に熱心に懇願されたこともあり、無所属で立つつもりが、自由党からの出馬を決めてしまう。
「カネは当選したらいくらでも出しましょう」
……と本人はのちに語っているが、筆者は尾津の権力志向とリアリスト感覚が自由党入党の決め手ではと想像している。リベラルな感覚を持つ尾津だったが、なにか事を成すには力がなければならない。それには自由党しかないと判断したように思う。
自由党の大物たちを前に、それでも釘をさしておいた。