27歳くらいのときのケンカで、人を2人殺してしまって…
大正の終わり、昭和天皇が摂政官だった時代に、その馬車の列にブラジル公使が礼を欠いた行動を取った小事件が起きた。「よし」、これを知るや突如として尾津は自動車に乗って、ブラジル公使館へ乗り付け、なんと敷地内まで侵入、抗議行動だ!と暴れたわけだがもちろん逮捕。
かと思えば、アメリカに排日機運が盛り上がっていると知るや、今度はアメリカ大使館に忍び込んで、星条旗を竿からひきおろして、またも捕まっている。
ほかの政治団体の壮士たちとも小競り合いを繰り返し、大きな「出入り」(やくざ者同士の衝突)があれば、自ら抜刀して相手を威圧した。この時期、尾津は「企業協調社」という不動産ブローカーの実態不明の会社も興す。尾津本人が後年語った一言が正確だろう。「インチキ会社」。
大正の終わりごろ、27歳くらいのときのケンカでは、人を2人殺してしまっていると後年アメリカ人記者に話している。子分が出頭したのか尾津は逮捕されなかったから、虚勢を張ったのか事実なのかは不明。
ちなみにこの時期、逮捕歴自体は実際に2回あり、刑務所にも入っている。一度は大正15年11月13日、東京刑事地裁にて恐喝で10か月、少しあとになるが昭和3年10月5日、同じく恐喝で10か月である。
手下たちは手が付けられなくなっていく
こうして平井扇風の名はそれなりに「業界」に売れたようだが、このような仕業で売っていく名になんの意味があるのだろうとの思いが、彼を追いながらも筆者の心をよぎっていくが、売る先は一般社会でなくアウトローたちの世界。一定の意味はあるのか、とも思い直す……。
確かにここへ売り出していかねば、各地に勢力を持つ親分衆に一目置かれることもなく、子分も集まらない。子分がいなければ、組織的な示威力を持ちえない。
しかしここまでだった。
乱暴狼藉を繰り返すうち、手下たちは増長、その横暴に手が付けられなくなってきて、尾津本人ももてあまし気味になってきた。ここで政治団体「赤化防止団」総帥の米村嘉一郎から、もう潮時では、と提案を受ける。
赤化防止団はアナキストを襲撃したり、東京市長時代の後藤新平の邸宅を襲撃するなど、テロ行為をいとわない過激派組織。その総帥に諭されてしまうとは、このときの尾津グループがいかに哲学なき、無法者の集まりだったかの証左と言える。
米村のすすめ通り、結局尾津は、この団体も解散した。