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ところが手術を受けた患者の一人に、ある特徴的な経過が見られたため、執刀した神経外科医ウィリアム・スコヴィルとミルナーは、この経過を症例報告にまとめ発表した。それが1957年の有名な論文「両側海馬損傷後の最近の記憶の喪失」だった。中身をかいつまんで紹介しよう。

患者の名はヘンリー・グスタフ・モレゾン。ただし、生前はプライバシー保護の観点から、ずっとHMというイニシャルで書かれていたから、記憶について学んだことがある人にはイニシャルのほうがなじみ深いかもしれない。

彼は、10歳の頃から体の部分的な痙攣(けいれん)を繰り返していた。不幸なことに、16歳のときに全身の痙攣に移行。この大発作は難治性だったようで、大量の抗痙攣薬を投与しても、年々、発作の頻度と重症度は増すばかりだった。ついにモレゾンは仕事もままならなくなり、本人と家族の了解のもと、27歳で手術を受けることを決意する。

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トイレの行き方すらわからなくなった

スコヴィルは、モレゾンの癲癇の発生源を突き止め、その部分の切除手術を行った。原因の部位は、両側の海馬だったのだ。

手術は成功し、彼の性格は変わらず、知能の低下も認められなかった。ところが、「行動面では、一つ驚くべき、まったく予想外の結果が出た」(前掲論文)という。

手術後、彼は新たに経験したことが記憶できなくなってしまった。そればかりか、過去10年ほどの記憶も消えてしまった(正確にいえば思い出せないのだ)。

手術後、彼は病院スタッフを認識できなくなり、トイレへの行き方すらわからなくなった。また、大好きだった叔父が入院し、3年前に亡くなってしまったことすら覚えていなかった。記憶できないことが、日常生活にどれほどの困難をもたらすのか、私たちには想像だにできない。それでもモレゾンは2008年に亡くなるまで根気強く記憶の検査に協力した。

最近の出来事も過去の記憶も思い出せない

さて、この研究によってミルナーは博士号を取得し、その後、マギル大学の神経内科および脳神経外科の教授になった。以降、彼女は記憶のメカニズムに関して多大な貢献をし、神経心理学の創始者と呼ばれた。100歳になってもなお、記憶に関する研究者のアドバイザーを務めていた。