「長嶋監督を失望させることだけは…」最も怖かった試合
――1年目に14勝を挙げ、大学時代に目標に掲げていた新人賞も獲得しました。
和田 チームが日本一になり、胴上げ投手にもなって、こんないいことがいっぺんに来ていいのかな、って(笑)。
その一方で、最も怖かった試合は、アテネ五輪アジア予選の韓国戦(2003年)です。1、2戦は(松坂)大輔や上原浩治さんが投げて勝っていたし、僕が先発する3試合目に大量失点さえしなければアテネ五輪の出場は決まったようなものでしたけど……。それでもムチャクチャ緊張しました。
監督だった長嶋茂雄さんが「絶対に全勝するぞ」と仰っていたので、監督を失望させることだけは避けたかった。各球団のエースを差し置いて僕が投げさせてもらうことへのプレッシャーは半端なかったですね。
意識が飛んでしまいそうな自分を何とか立て直し、無失点でマウンドを降りると、捕手の城島(健司)さんに「このプレッシャーの中、良く投げ切った。初めて褒めたるわ」と言われたのをすごく覚えています。城島さんに褒められたのは後にも先にもこの1回だけ(笑)。
年齢を重ねるごとに進化する理由
――和田さんは度重なるケガもその都度克服し、年齢を重ねるごとに進化する選手としても知られています。なぜ、肉体の衰えという自然の摂理に反し進化できたのですか?
和田 自分では進化しているかどうか分からないけど、好奇心と挑戦魂は人一倍ありますね。身体に関することや野球のデータ解析などの情報には常にアンテナを張り、疑問に思ったことはすぐに調べたり専門家に聞いたりします。トレーニングにいいと思えば取り入れますし、若い選手の情報も貴重なので「それは何?」とすぐに聞いちゃいますね。実際やってみて違うなと思えばやめればいいだけの話ですから。ジャンプアップするには、まず自分を実験台にして挑戦してみる。
この思考の原点になったのは、(早稲田)大学1年生の時のフォーム改善。1か月半で球速が15kmアップしましたけど、フォームを変えるって投手にとってはものすごく勇気がいることなんです。でも、だめもとで挑戦したら成功した。だからどんなことでもやってみなきゃ分からないし、もしダメでも挑戦しないよりはいい。僕は根本的に、失敗したときの怖さを何とも思っていないんですよ。
そもそも、身体にも恵まれず才能もなかった僕がプロの世界で22年間も第一線でやって来られたのは、好奇心とチャレンジ精神、そして失敗しても「上等じゃねえか」と恐れなかったことだと思いますね。