厳しさを乗り越えてこそうまくなるのだから、褒められるよりも叱られる指導のほうがいい。厳しくさえあれば論理的でなくともかまわない。むしろ論理的でないほうが、理不尽という厳しさが醸成されるから好ましい。そもそも社会は理不尽さで溢れ返っているのだから、その予行演習ができてよい――。おそらくほとんどのスポーツ経験者は、無自覚にそう信じている。
だが、スポーツ経験が豊富でない親はそうではない。理不尽を伴うほどの厳しささえも礼賛するスポーツ界に特有なこの空気に困惑している。耳や目を疑う暴言、暴力に遭遇しても、そもそもスポーツとはそういうものなのかもしれないとつい遠慮してしまう。参照する過去がないだけに、思わず戸惑うのは必然である。
今回は、こうした悩みを抱える親に向けて書いてみたい。スポーツ経験者は自らの経験を再解釈するために、未経験者にはスポーツ指導の本質を理解するために参考にしていただければと思う。
「厳しい指導が必要」は一理ある
繰り返すが、スポーツ現場で暴力行為がなくならない根底には、「スポーツでの上達には厳しさが必要だ」という信憑がある。上達に不可欠な厳しさを醸成する手段として、暴力行為は機能する。そう私たちは無意識的に信じている。社会通念では許されないはずの暴力行為が、スポーツ現場でいともたやすく見過ごされるのは、それが上達や成長に資すると信じられているからである。
この信憑には、実は一理ある。
なにをしても怒られない、いわばラクラクこなせる練習よりも、至らない点を事細かに指摘される厳しい練習のほうが上達を促す。手放しですべてを肯定する生ぬるい環境は子供を甘やかすことにつながり、競技力の向上にも心身の成長にも資することはない。生ぬるさよりも厳しさこそが人を成長させるのは、確かにその通りである。
だから子供にたくましく育ってほしいと願う親は、無意識的に厳しさを求める。褒め殺されるよりも、困難を乗り越えられる力を身に付けてほしい。少々のことではへこたれないタフさを、スポーツを通して身に付けてもらいたい――。