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やがて自分の手元から離れゆく子供の自立を促すのは親の役割で、だから生ぬるさよりも厳しさを求めるのは、至って自然な考え方である。

理不尽な指導では人生を生き抜く「タフさ」は身に付かない

だが、ここには細心の注意を払わなければならない。暴力行為も厭わない厳しさによって身に付く「タフさ」とは、いったいどのようなものなのかということである。

結論から言えば、暴力行為が伴うほどの理不尽な指導では、人生をたくましく生き抜くために必要な本当のタフさは身に付かない。

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暴言や暴力行為が伴う指導は子供に恐れを抱かせる。この恐れという感情を巧みに利用し、半ば強制的に意欲を醸成する指導法である。うまくできなければ怒られるから仕方なく練習をするという仕方で、子供たちを焚きつける方法だ。

この方法は、いつも何かに急かされている状態に子供を縛り付ける。いわば過緊張の状態に置くということである。ここでは「冷静さ」が奪われるとともに、事の善しあしを指導者の価値観に委ねざるを得ない。知識や経験を駆使して自ら思考を繰り返して導き出すよりも、指導者の考えに沿っているか否かが重要視され、たとえ逆立ちしたって納得できない考えだとしても、無理やりにのみ込まなければならない。

こうした状況に置かれれば、人はフリーズする。どうしたって納得できないことをのみ込むためには、思考を停止させる必要が生じる。自ら考えることをやめて他者の価値観をそのまま受け入れる。これは自分を騙すことであり、内なる声を無視して自らを宥めすかすこの心的経験は、自分ではない何者かになることを受け入れることにほかならない。

自分の感情を殺す「鬼」に育ってしまう

内なる声、つまり心身の感受性を鈍麻させた先に待ち受けるのは人間性を失った「鬼」であると、思想家の内田樹氏は指摘している。

理不尽な状況に耐え忍ぶことができるという点で、「鬼」はタフである。だが、この「鬼」は冷静に思考することができない。納得できなさをのみ込むため意図的に頭に血を上らせ、兎にも角にも現状を肯定しようと試みる。善悪や正邪の判断を、第三者の価値観に委ねるこの態度は、人生をたくましく生きてゆくために必要なタフさとはいえない。