記者たちを煙に巻く宇垣一成
そうした「東上」にまつわる雰囲気を伝えるのが、朝鮮総督として毎年東京に出向いた宇垣一成である。宇垣は、第一次世界大戦後に陸軍への予算削減に際して、師団削減を行った反面、戦車や航空機の生産など軍の合理化を進めた。その手腕から、首相候補と目された反面、粛軍による一部の軍人からの反発も受けていた。朝鮮総督には1927年に臨時代理、そして31年から36年に就任した。
朝鮮からの宇垣の東京訪問は、そのたびに中央政界に波紋を呼んだ。宇垣は天皇に拝謁して、朝鮮の情勢を説明し、政界の要人と懇談を重ねる。そして、宇垣を高く評価した元老の西園寺公望の動向を、人は注視したのである。
総督宇垣の東上では、もっぱら船で到着した下関の山陽ホテルで記者との懇談が行われる。二度目の総督就任後の1931年10月30日、「山陽ホテルに少憩中すこぶる上機嫌」の宇垣は、満州事変に関する朝鮮側の状況報告を行うことや、政府の方針に合わせて朝鮮総督府も緊縮予算を組む予定であることなど、時局について談じている(『東京朝日新聞』1931年10月31日)。また1932年11月9日には、同じく山陽ホテルで「我輩が腰をあげて内地に帰るといつもきまったように政界いりの噂がぱっと立つが世間には厄介な閑人の多いのに驚く」「政界いり等夢にも考えて居ない、上京後我輩が何人と逢ってもそれは朝鮮統治上の用務以外の何ものでもないからあまり神経を尖らしてくれるな」と煙に巻く(『東京朝日新聞』1932年11月10日)。
記事を書くために役立つ材料をあえて語るかのような口ぶりは、その後も続く。1933年5月27日には、朝鮮から下関に到着後、山口県知事など地元の名士二十余名を招待した晩餐会を山陽ホテルで開き、記者には「聾桟敷からまかり出た田舎役者のおれには天下の形勢はわからない」と煙に巻く(『東京朝日新聞』1933年5月28日夕刊)。そして1934年5月の東上に際しては、京城で記者団との会談に臨み、はやる記者に「楽屋の外からはやし立て騒ぐのはみっともない、諸君は少し神経過敏に陥って居るのではないか」と語るのである(『東京朝日新聞』1934年5月24日夕刊)。
そして1年2ヶ月ぶりの東上となった、1935年7月7日、白麻の夏服にカンカン帽、籐のステッキという「瀟洒な服装」で山陽ホテル入りした宇垣は、「至極上機嫌」でこう語る。今回の東上は、水害についての御下賜金の御礼言上と、予算の売りあわせのためだと述べ、「『半島から日本を見渡すとどうかって?』雨が降って洪水で気の毒だと思うさ、イヤ内地もいよいよ暑そうだな」と「チョッピリ暗雲低迷の政局に皮肉を浴びせ」る。さらに「万年総督で終りたいと思うがどうもそうばかりはいかぬだろうしねと問題の人らしい色気を匂わせ」るのである(『東京朝日新聞』1935年7月8日)。
この気分は宇垣の日記にも表れている(1935年7月28日条、30日条、宇垣一成『宇垣一成日記 2』みすず書房、1970年、1025頁)。
「余は今次の東上に於て内地の腑甲斐なき有様を実見体験」、「滞京中は過去の東上時に比して政友方面の人士と軍部方面の者の刺を通じ或は他の手段によりての交渉が存外多かりしは、何かを物語り居るを感じたり矣。」