政治家が東京から関西に向かう“鉄道旅”は「西下」と呼ばれ、新聞記者たちの取材の激戦地だった。一方、国外から東京に軍人が向うことは「東上」と呼ばれた。政治学者の牧原出氏が「西下」「東上」を切り口に時代を読み解く。
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東上する軍人・外交官、満州国皇帝の西下
そもそも西下では、緊迫したやりとりもときにあったとはいえ、やはりしのぎを削る政争が繰り広げられる東京を離れる旅である。原敬が紅茶をすすり、俳句を詠んだように、くつろぎの時間となる。木戸公一にとっては、西田幾多郎との交流がそうであり、道中繰り返し地元知事の宴席に招かれ、夜は知人と会食している。
逆に、東京へ向かう旅はどうだろうか。西下の対となる「東上」も、明治期から徐々に用いられ、大正・昭和期には紙面を飾る言葉となる。ただ、単に関西などから東京に向かうことを指すのではない。朝鮮、台湾、中国大陸などから、総督・大使・軍人らが下関などに到着し、そこから鉄路で東京に向かい、宮中に参内し、政府首脳と会見する営みを指す。天皇に拝謁し、状況を伝え、また政府関係者と意見交換する。つまり、西下とは異なり、東上は厳粛な場に向かうことを意味し、その影響を含めると、本人の心中にも、それを待ち受ける東京の政治家たちの間でも政治的緊張が走る。
このように西下がくつろぎの関西訪問であり、日本の古都が点在する地域にいにしえを訪う意味あいもあり、訪問地で何をするかに自ずから視点が集中する。これに対して東上は、帝国日本のパノラマの一コマである。東上という行為が大陸と首都なかんずく宮中・首相官邸とを結びつける。宮中・首相官邸から見れば、東上という旅を通じて、大陸植民地ないしは占領地を子細に把握するのである。