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溥儀は東上しないが西下する

 こうして東上において東京での中央政界との交渉に向けて緊張感が高まるのと、西下が憩いの時間となるのとは、様相がかなり異なる。帝国日本の境界を朝鮮から満州にまで広げると、この緊張と憩いの落差はくっきりと浮かび上がる

 1935年に満州国の首都新京から御召艦比叡に乗って東京に到着した満州国皇帝溥儀の場合である。すでに3月にその準備のため、特使が神戸に降り、そこから特別列車で「東上」していた(『東京朝日新聞』1934年3月26日夕刊)。

東京駅で溥儀を出迎えた昭和天皇 ©時事通信社

 もっとも、溥儀自身の到着は「東上」とは報道されない。船路であるし、天皇と並ぶアジアの君主としての会見と位置づけられたからであろう。東京では熱烈な歓迎の行事が行われ、溥儀は天皇と親しく交流し、天皇家とくに貞明皇太后が親しみを持って接した。

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 その後溥儀は京都に向かい、関西の名所を巡ってから船で帰国する。この京都行きは「御西下の盟邦元首 京都へ御安着」と報道される。溥儀は東上はしないが、西下する。「春宵静かに御休養」として「御休養第一の御予定」となったのである(『東京朝日新聞』1934年4月16日)。金閣寺、東大寺、正倉院、春日大社などを見た後、神戸から比叡に乗艦し、宮島経由で帰国した。

 溥儀自身、回顧録でこのときの「日本皇室の鄭重なおもてなし」に大きく動かされたと記している(愛新覚羅・溥儀『わが半生 下』筑摩書房、1977年、36~37頁)。自分は天皇と同等の君主であるという自覚を持ったからだという。東京での交流と、まるで今現在の京都修学旅行の訪問先を回るような「西下」は、溥儀の心理的な構えを解くものであった。

 だが、戦時中の1940年の日本訪問では、同じように東京に御召艦日向で到着し、東京で歓待を受けたものの、西下の際に伊勢神宮を参拝するなど、神道色の強い訪問となり、元来満州族としての宗教に意識的な溥儀にとっては、内心抵抗感が残るものとなった。